鑑定書は越えて十二月十九日に到達した。例により結論だけを挙げる。
[#ここから2字下げ]
鑑定
前記検査記録説明の理由に拠り鑑定すること左の如し
一、本頭蓋骨は女性とす。
一、本頭蓋骨の年齢は十六歳乃至二十歳と推測す。
一、本頭蓋骨の頭蓋は中型にして高型、顔面は稍長形、鼻は中型、顋《あご》は前反型なりとす。
一、本頭蓋骨はその性年齢に相当して発育せるものとす。
一、本頭蓋骨の死因は不明とす。
一、本頭蓋骨の上顋切歯は幾分前に出て居る観を与えしやも知るべからず。
一、本頭蓋骨の下顋犬歯は普通人と比し長し。
一、本頭蓋骨の下顋犬歯は鬼歯と称し得ず。
一、本頭蓋骨の下顋犬歯は咬合する時、上顋歯列前に出でず。
一、本頭蓋骨の知歯は下顋に於て其歯槽内に於いて存在し、上顋に於ては不明とす。
大正六年十二月十九日
[#ここで字下げ終わり]
以上諸家の鑑定により発掘せられた死体は小林貞である事が動かすべからざるものとなった。
第二の問題は支倉が果して彼女を殺せしか、否か。
之は専ら彼の警察署に於ける自白の真実性、諸証人の言の綜合の上よりして、裁判官の心証のうちに描き出される事であらねばならない。
続行裁判、証人の訊問、鑑定人の答申等のうちに、支倉の一身上に多事なりし大正六年は遂に終ったのだった。
明けて大正七年一月十九日に第六回の公判が開かれた。この時に能勢弁護人は「小林貞と称せられる者の遺骨を埋めた墳墓」の実地検証と遺骨の胴体の鑑定を申請した。彼の考えは神楽坂署で発掘に向った時には最初飛んでもない間違った死体を持返っているから、その間何か被告に有利な弁護の材料はありはしないかと睨んだのである。
裁判長は直に之を許可し、胴体は再び友長医学士に依って鑑定せられる事になった。
が、鑑定の結果は四尺二寸より低からざる年齢十六乃至二十歳の女性の正常骨格である事が判明して、先に持返った頭蓋骨の胴体である事が明かになった。
二月十六日、五月六日、六月十日、同二十五日、同二十六日と続行裁判を重ね、続々として証人の喚問被告の訊問が行われて、検事と弁護士の間に論告があった後、愈※[#二の字点、1−2−22]七月九日に判決が下される事になった。
そうして下された判決は冷たい「死刑」であった。
三本の手紙
真夏の午後、日ざしは少し斜になったとは云いながら、焼けつくような太陽は埃りぽい庭にギラ/\と眩しい光を投げつけていた。神戸牧師は端然と書斎の机の前に坐りながら、書見に倦み疲れた頭をぼんやりと休めていた。
あるかなきかのそよ風が軒に釣り古した風鈴に忍びやかな音を伝えて、簾越しにスーッと、汗ばんだ単《ひとえ》衣の肌を冷かに撫でて行った。
神戸牧師はふと今朝程来た裁判所からの召喚状の事を思い出した。彼の眉にはみる/\深い皺が寄った。
牧師の頭には不愉快な思出がアリ/\と浮かんで来た。
大正六年の冬、それはもう一昨年の事になるが、初めて神楽坂署に呼出されて、支倉喜平の恐ろしい罪状の数々を聞き、彼の自白に立会ってから、昨年の夏第一審の終結となるまで、何回となく証人として法廷に立たされた、苦しい思い出は終生忘れる事が出来ない。
去年の夏七月第一審が終結した翌朝、彼の妻は不安とも安心ともつかない浮かない顔をして彼に云った。
「支倉はとうとう死刑になりましたね」
「うん」
牧師も浮かない顔をして答えた。
「控訴するでしょうか」
「無論するだろう」
「じゃ、又証人に呼び出されるのでしょうか」
「無論、呼び出されるだろう」
妻は言葉を切って夫の顔を見た。夫は妻の情なさそうな顔を見た。妻は明《あから》さまの溜息を、夫は腹の中で私《ひそ》かに溜息をついたのだった。
支倉は果して控訴した。審理は又蒸し返しとなった。被告の都合や、弁護人の都合や、裁判所の都合で公判は延期に延期を重ねた。その中に一年は夢のように経って終《しま》ったけれども、裁判は少しも埒《らち》が開かない。
裁判を遷延さす事はそれが弁護人の策略であるかのように神戸牧師には思えて仕方がなかった。裁判が延びるにつれて、被告の犯罪事実は調書に止《とゞ》まってはいるものゝ、だん/\印象が薄れて来る。証人も倦み疲れ、判官も熱心が欠けて来る。その間に乗じて弁護人が巧に働けば遂には証拠不十分と云う事に漕ぎつける事も出来るだろう。それだけに裁判を延ばされると云う事は、いつも証人として立たなければならない神戸牧師に取っては、苦痛の度が益※[#二の字点、1−2−22]大きくなるのである。
五年も六年も前の出来事について、而も度々繰返した一つの証言を、又事新しく強いられるのは苦痛でなくてなんであろう。所が神戸牧師の苦痛はそれだけに止まらなかった。
支倉は控訴後も無論未決監に入れられていたが、彼が獄中から毎日と云って好い程――実際は月に四、五回だったかも知れないが、牧師にはそれが毎日と思えるのだった――彼に当てゝ手紙を送った。それには極って、
「神戸さん、ほんとうの事を云って下さい。庄司とぐるになって私をいじめないで、ほんとうの事を云って下さい」
と書いてあった。それも初めのうちは嘆願の調子だったが、それがだん/\悪意があるようになり、果は彼を侮蔑し罵るようになった。神戸牧師は努めて彼の手紙を黙殺しようとしたが、執拗な彼の遣方に終いには腹立しさを感じて、手紙を見るといら/\するようになった。
「又来ましたよ」
彼の妻も手紙が来る度に眼の色を変えて訴えるようになった。
「関わん、抛とけ」
牧師は尖った声でこう答える事が多くなった。
いつまで経っても支倉は恨みの手紙を送る事を止めなかった。
むしろ益※[#二の字点、1−2−22]激しくなるのだった。
神戸牧師はこんな事を思い浮べながら、茫然と庭を見つめていると、妻が名刺を持って這入って来た。
「この方が支倉の事でお目にかゝりたいのですって」
彼女は不安そうに夫の顔を覗った。
名刺には「救世軍大尉 木藤《きふじ》為蔵」とあった。
救世軍の木藤大尉と云うのは一向知らない人なので、神戸牧師は暫く名刺を見詰めていたが、支倉の事に就てと云われると、会わない訳にも行かないので、兎に角通すように妻に命じた。
この木藤と云う人は後に分ったのであるが、廃娼運動の急先鋒で、遊廓で廃娼演説をやったり、娼妓の自由廃業を援助したりして、楼主側から非常な圧迫を受けた。然し毫も屈しないで運動を続け、或時は暴力団に包囲されて、鉄拳で乱打されたり、時には無頼漢に匕首《あいくち》を擬して追われたりした、真に死生の間を潜り抜けた勇烈の士だった。
彼はずんぐりした短躯で、見るから頑丈そうな、士官の制服が窮屈そうに見える人だった。
「やあ、初めまして」
木藤は座に着くが早いか、元気よく挨拶をした。
「初めまして」
神戸牧師は丁寧に礼をした。
「中々暑うございますねえ、先生の方の御仕事はいかゞですか。我々の方はこう暑いと骨が折れますよ」
「そうでしょう。あなた方のお仕事は大変でしょう。我々の方は仕事と云っても別に変った事はありません。お恥かしい位です」
牧師は謙遜した。
「いや、我々の方も一向駄目です、思うように行きません」
元気な救世軍士官は汗を拭き/\、
「所で今日突然お伺いしましたのは、支倉喜平の事でお願いに出たのですが」
「はあ」
牧師は暑さで上気した相手の顔を見た。
「私はその、他の用で東京監獄に行きましてね、ふと支倉に呼び留められて、だん/\話を聞いたのですが、あゝ彼の云う事が全部事実だかどうか分りませんが、可哀そうな者だと思われますので、実はお願いに出たのですが、先生一つ何とかして救ってやって頂けませんでしょうか」
「成程そう云う訳でしたか」
神戸牧師はうなずきながら、
「で、その救ってやると云うのはどうすれば好いのですか」
「そう具体的になると困りますがね」
木藤大尉は鳥渡《ちょっと》頭を撫でるようにしながら、
「つまり何です。彼を憐んで下すって、彼の利益になるような証言をしてやって頂きたいのです」
「利益な証言と言いますと」
神戸牧師は飽くまで真面目であった。
「つまり従来のではいけない、彼を庇護する為に事実を曲げろと仰有るのですか」
「いや、それ程までに強い意味ではないのです。先生の証言なるものは要するに心証の問題で、事実は曲げなくても、先生のお考え一つでどうにでも解釈の出来る問題じゃないのでしょうか」
「そうかも知れません」
牧師はきっぱり云った。
「ですから私は私の解釈を法廷で申述べたのです。尤も私は一旦は拒絶しました。然し既に口外したからには、私の考えとして飽くまで責任を負い、今後変更しようとは思ってはいません」
「ご尤もです。然しもし先生が彼に憐れみを垂れて下されば――」
「鳥渡お待ち下さい」
神戸牧師は遮《さえ》切った。
「先刻からのお話では、私が何か支倉を憎んでゝもいるように取れますが、もしそう云うお考えだと飛んでもない事で、私は決して彼を憎んでは居りません。十分憐憫の情は持っている積りです。然し宗教家としての私は、法律上の罪人として彼に干渉する事は出来ないと思うのですが。それとも彼は全然冤罪であると云う確証でもお持ちなのでしょうか」
「いや、決してそうじゃないのです。私も彼が悪人であると云う事は十分認めているのです。然し、悪人なればこそ、一層救ってやる必要はないでしょうか」
「悪人を救ってやる事には異議はありませんが、それは宗教の関係している範囲で、法律上の事に及ぼす事は出来ないと思います」
神戸牧師はいつになく熱して来た。
「然し」
木藤大尉も屈しなかった。
「法律上の罪人でも救う道はあると思います。例えばユーゴーの小説レ・ミゼラブル中のミリエル僧正がジャン・バル・ジャンを救ったようにですね」
「あなたは何か誤解をして居られませんか」
神戸牧師は大尉の顔を見ながら云った。
「支倉は獄中から度々私に手紙を寄越して、『神戸さん、あなたは牧師だったら、ホントの事を云って下さい』とか、『私はあなたからホントの事を云って貰って、あなたに救われたなら、あなたの為に出てからどのような事でもする』とか云って居りましたが、多分あなたにもその通り申上げたでしょう。その為にあなたは私が何か嘘でも云っているようにお取りではありませんか。あなたは最近に不意に支倉に会われて、彼の口から冤罪を訴えられたので、すっかり信じてお終いになったかも知れません。私は久しい以前から彼を知っています。現に彼の自白の場面にも立会ました。で、私はあなたが今彼の訴える事を信じられる通り、彼の自白を信じざるを得ません。あなたも今の彼の云う事を信じて、以前に彼の云った事を信じないと云う事は出来ないでしょう」
「ご尤もです。一言ありません」
木藤はうなずいた。
「私だって彼の冤罪を全然信じている者ではありません。ですから、こゝでは彼の云う事が正しいか正しくないとか云う問題でなく、彼も今となっては悔悟の涙に暮れているのですから、どうでしょう、義侠的に彼を救ってやって下さいませんか」
「成程、あなたのお考えはよく分りました。憐れな囚人や、醜業婦や、貧民窟の貧乏人を救ける位の義侠は宗教家としては持合せていなければならぬ筈です。然しそれも事柄によります。現在のように法律問題となって、法廷の曲直を争っている彼に対して、私が義侠的に救けると云う途はないと思います。法廷に立って私は、権力を以て強られるまゝに、真実私の感じた事を述べるより外はありません」
「先生の御意見はよく分りました。では私として、法廷の証言以外に彼に対して、どうか好意を持ってやって頂きたいとお願いするより致方ありません」
「私は前申上げた通り、彼に対して悪意を持った事はありません。仰せの如く今後出来るだけ好意を持ち続ける事にいたしましょう」
「どうも恐れ入ります。そう願えれば之に越した喜びはありません。それから」
木藤は鳥渡言葉を改めて、
「お言葉に甘えてお願
前へ
次へ
全43ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング