だった。それで彼女は夫に面会の折にその事を話して見た。
「あの、家の事ですけれども、千五百円なら買手がありますので、売って終ってあなたの弁護料なり弁当代にしたいと思いますがどうでしょう」
「家を売る事は少しも差支ないがね」
 支倉は大きな眼をグル/\させながら答えた。
「あの家は根岸刑事が三千円で売ってやろうと確く請合って呉れたのだ。で、わしはその金を自分の事に使う積りはない。その金を資本にして、お前が一生困らないだけの収入を得て、子供を育て上げて呉れゝば好いのだ。兎に角千五百円と云うのは余り安い。いくらなんでも二千円には売れるだろう。浅田に相談して見て呉れ」
 浅田に相談することは気が進まなかったが、静子は逆らわないようにと、
「はい、それではそういたしましょう」
 そう云って面会所を出たのだったが、それから二、三日経つうちに思いがけない大変が起った。それは東洋火災保険会社が家を仮差押えしてしまったのだった。
 支倉が起訴されて予審が有罪と決すると、その刑事記録を証拠として、支倉を対手取り二つの私訴が提起された。
 一つは例の聖書会社からで盗まれた聖書価格約七千円の損害賠償で、もう一つは今云う保険会社からで、詐取された保険額約三千円の損害賠償だった。保険会社の方は兎に角聖書会社は博愛主義の基督教の宝典たる聖書の販売元だから、罪を憎んで人を憎まずと、損害賠償の私訴などを起して、今更支倉を苦しめなくても好さそうなものだが、矢張りそうは行かぬと見えて、忽ち訴訟を起した。所が流石は聖書会社で物件の差押えまではやらなかったが、そこは機敏な保険会社が直仮差押えを申請したのだった。
 この家屋は浅田の奔走で静子の名義になっていた筈であるが、手続が完了していなかったか、それとも外に仮差押えをする途があったか、兎に角、家はもうどうする事も出来なくなったのだった。
 唯一の望みだった家が差押えられて終《しま》ったので、静子は茫然として終った。次の面会の時に彼女は悄然として夫にその事を語った。
「家を売ろうと思いましたが、保険会社に差押えられて終いました。もう駄目です」
「なにっ、差押えられた?」
 支倉の相好は忽ち変った。彼のいかつい眉が釣上り、眼は爛々と輝いて、無念そうな有様は、流石の静子もタジ/\とする程だった。
「そ、それは本当かっ!」

 家を差押えられたと聞いて、支倉の憤怒は一通の事ではなかった。静子はその権幕におじたけれども今更隠す事も出来なかった。
「はい、一昨日差押えられました」
「うむ」
 支倉の眼は怪しく光った。
「騙《だま》されたのだ。署長に一杯|嵌《は》められたのだ」
 静子は夫の興奮があまりに激しいので、宥《なだ》めようとしたが、さっきからこの異様な光景に気づいていた看守は、忽ち二人の間を隔てゝ終ったので、面会はそれ切りになり、静子は夫に一言の慰めをも与える事が出来なかった。
 保険会社の方から云えば詐取せられた金だから、何とかして取返さねばなるまいが、この支倉が唯一の頼みにしていた彼の財産を差押えた事は、確に彼を悪化させる一つの原因だった。彼はこの事を上願書に次のように書いている。
「その翌々日荊妻が亦私に面会を求めて来ました。此時は荊妻はしおれた顔をして、さも心配そうにもう駄目です。家屋は東洋火災保険会社より仮差押えされましたと云って、しお/\と帰りました。あゝ我れは虚偽の申立をなし、殺さぬものを殺したとして、妻子を救う考えなりしに、救う事出来ず、我れは謀られたのであったか、我れも是までなり、残念至極、無念々々、謀られて我は冤罪の下に絞首台に上るか」
 支倉が自白を否認したり、狂気を装うたりし出したのはこの事があってから後らしく、それで見ると、家を差押えられた事が自白否認の大きな原因ではないかと思われるが、後に第二審公判の折、裁判長より何故に予審廷で一旦自白して置きながら、直ちに自白を飜えしたかと訊問されて、一旦は妻子を助けん為、虚偽の自白をしたがいつか一度は真実の事を述べて置かないと、後の裁判に不利で、遂に冤罪を逃れる機を逸すると思って、虚偽の自白である事を申立てたと述べている。別に家を差押えられて、神楽坂署で騙された事が始めて分り、その為虚偽の自白である事を暴露したとは云っていない所を見ると、さして大問題でなかったのかも知れぬ。
 然し、当面の問題として最も苦しんだのは静子だった。頼みに思う夫は未決監に繋《つな》がれ、身には一銭の貯えもなく、唯一の財産である家屋は尽く差押えられて了った。前にも云った通り当座は身についたものを一つ売り二つ売りして凌《しの》いだが、今はその売代《うりしろ》さえ尽きた。夫の公判の期日は迫っている。愈※[#二の字点、1−2−22]公判となれば正式に弁護士を依頼しなければならない。然し今は弁護士を依頼するどころか、明日の糧さえないのだ。その上近くこの家も立退かなければならない。そうすると差当り雨露を凌ぐ道にさえ差支《さしつかえ》るのだ。
 それからそれへと静子の物思いは尽きない。無心でスヤ/\と寝入っている子供の寝顔を見るにつけ、涸き切ってもう流れ出る源もあるまいと思われた涙が、又新たに浸み出して来る。血の涙と云うのはこの事であろう。
 あゝ、明日をどうしよう。子供をどうして育てよう。それよりも近々公判に廻る夫の身をどうして救けよう。夫は呉々も無実の罪と云っている。神楽坂署で立派に白状した時の様子は嘘らしく思えなかったが、今の夫も嘘を云っているとは思えぬ。どうかして有力な弁護士を頼んで、夫をあの苦しみから救い出したい。
 静子の心は千々に乱れたが、昼よりの疲れに、今は身心ともに困憊《こんぱい》して、そのまゝ子供の枕許へウト/\と寝崩れて終《しま》った。
 ふと、冷たい風が身に触れたので眼を醒ますと、何刻経ったか、夜は深々と更けたようで、雨戸の一枚明け放しになった所から外を見ると、いつの間にか空は真黒に掻き曇っていた。静子はあわてゝ、起き上って雨戸を閉めようとすると庭の奥に朦朧《もうろう》と人影が現われた。

 庭先に怪しい人影を見た静子は、
「あっ」
 と叫んでそのまゝ立|竦《すく》んで終った。
 人影はふら/\と彼女に近づいて来た。
「まあ、あなたは」
 静子は再び驚きの声を上げた。
 怪しい人影と思ったのは夫の喜平だった。彼は黙ってのそ/\と家の中へ這入った。平常通りの姿で、割に元気が好かった。静子は監獄にいる筈の夫がどうして今頃我家へ帰って来たのだろうと鳥渡不審の眉をひそめたが、別に深く怪しみもせず、彼を迎え入れた。
「よく帰って来られましたね」
「うん、酷い目にあったよ」
 彼は気軽に口を利いた。
「お前も気の毒だったねえ」
「いゝえ、私なんかなんでもありませんわ」
「でも、神楽坂署では随分いじめられたろう」
「えゝ、ちっとばかし」
「ちっとばかしじゃない。俺はよく知っているんだ。俺は何べんかお前の泣声を聞いたのだ」
 支倉はきっとなって云ったが、やがて調子を落して、
「俺もなあ、ひどい目に遭わされたよ。刑事が交る/″\徹夜で調べるんだ。そうして得体も知れない骸骨に接吻をさせるのだ」
「えゝっ」
 静子は脅えるような眼で夫を見上げた。
「どんな事があっても、身に覚えのない事は白状しない積りだったが、お前の泣声を聞くのは身を切られるより辛かったし、徹夜の訊問にはヘト/\になって終った。まゝよ、犠牲になってやれ、この家を売って妻子は困らないようにしてやるからと署長も云ったし、後の心配もないと思って、つい嘘の白状をしたのが一生の誤りだった。俺はすっかり署長に誑《だま》されたのだ。今となっては云い解く術がない」
「あなたは本当に身に覚えがないのですか」
 静子は探るような目で夫を見た。
「ない。本当に少しも覚えがないのだ」
「そ、そんなら」
 静子は耐らなくなって啜り上げた。
「な、なぜ、あんな白状をなすったのですか」
「それは今云う通り――」
「いえ、いえ」
 静子は激しく遮切った。
「どんな訳があったって、殺しもしないものを殺したなんて、馬鹿げています。あなたは、あなたは」
 静子は口が利けなかった。
「俺が悪かったんだ。だから俺は絞首台に上るものと覚悟している」
「いえ、いえ、そんな必要はありません。誠覚えのない事なら、裁判で無罪になります」
「所が俺はもう云い解く事は出来ないのだ。俺は署長に嵌められて手も足も出ないようになっている。俺は冤罪で罰せられるより一そ一思いに死んで終おうと何度自殺を計ったかも知れない。然しいつでも失敗だ。一度は合監の洋服屋に頼んで殺して貰おうと思ったが、それも駄目だった。俺は死ねないんだ。どうしても死ねないのだ。だから俺は決心した。どうしても死ぬまいと」
 喋っているうちに支倉の形相は次第に物凄くなって来た。彼は拳を握りしめ、歯をバリ/\と噛んだ。
「あ、あなた」
 静子は情なくなって来たので夫に犇《ひし》と縋ろうとした。
 支倉はそれを振放して怒号し続けた。
「俺は死なゝい。断じて死なゝい。俺は呪ってやるのだ。俺を苦しめたあらゆる奴を呪ってやるのだ。俺は今日限り俺の魂を悪魔にやって終うのだ。天地の間に充ちている悪鬼妖精、其他もろもろの邪悪の徒は聞け。支倉は今日只今より悪以外の事は何事もしない事を誓う。俺はそれによって、今日まで俺を苦しめたこの忌わしい社会、権謀と術数と、姦詐と陥穽に充ちた人世に一大復讐を遂げてやるのだ」
 支倉のかっと見開いた眼は見る/\吊上り、口は耳まで裂け、真紅の舌からは血汐が滴るかと見えた。静子は恐怖に顫えながらガバとつっぷした。

 悪鬼の姿に変じた支倉は尚も怒号を続けた。
「俺は死なゝい。断じて死なゝい。生きながら悪魔に化すのだ。俺を苦しめた奴等を片っ端から、呪って/\呪い抜くのだ!」
「あ、あなた」
 静子は必死の声を絞って叫んだ。
「そ、そんな恐ろしい事は止めて下さいまし。身に覚えのない事ならいつかはきっと晴れます。冤罪で死んだ者は安らかに何の苦痛なしに主の御許に行く事が出来ます。どうぞ、どうぞ悪魔の味方になる事は止めて下さいまし」
「ならぬ、ならぬ、俺は呪うのだ。己れ、庄司、神戸、神楽坂署の刑事ども、俺の呪をきっと受けて見よ。静子、お前との夫婦の対面も之限りだ」
 そう云いすてゝ支倉は忽ち身を飜えしていずくともなく立去ろうとした。静子は一生懸命に夫に縋りつきながら、
「まあ待って下さい。もう一度考え直して下さい。坊やをどうするのです。それ、そこにスヤスヤ寝ている坊やをどうするのです」
「なに、坊や、うん、俺も昔は恩愛の絆に縛られて、女々しい気にもなった。もう今の支倉にはそんなものは用はない。そうだ、今日生きながら悪魔になろうと誓った首途《かどで》の犠牲に、そいつを踏み潰してやろう」
 怒髪天を衝き眼は爛々として輝き、かっと大口を開いた支倉は忽ち足を飛ばして寝ている子供を蹴飛ばそうとした。静子は驚いてその足に縋りついて、大声に叫んだ。
「あれ! 誰か来て下さいっ!」
 然しどうしたのか声が思うように出なかった。一生懸命に夫を押えている手も女の悲しさ、次第に力が弱って、今にも子供諸共踏み躙《にじ》られそうになった。彼女は身を悶えながら只微に、
「あれ――」
 と呻くばかりだった。

「もし/\、奥さん。どうしたんです」
 耳許に聞き覚えのある太い声が聞えたので、ハッと眼を開くと、のっそり浅田が立っていた。静子は今まで転《うた》た寝の夢を見ていたのだった。
 吃驚した彼女は飛起きると、浅間しい寝乱れ姿を繕《つくろ》った。
「どうなすったんです。大そううなされていましたぜ。玄関で大分呼んだのですけれども、返事がないので上って来たのですが」
 浅田はニヤ/\しながら云った。
「いろ/\思い案じているうちに昼間の疲れでつい転た寝をしたと見えます。そして恐ろしい夢を見たものですから」
 居ずまいを直した静子は襟元にゾク/\と寒気を催しながら答えた。この程から一方ならぬ世話になっている浅田に対しては、断りなく居間まで這
前へ 次へ
全43ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング