代りに妻子を助けて下さい。ヨロシイお前が男を立てたなら俺も男だ、職権を捨てゝまでもお前の妻子を助けてやろう。あの家だっても聖書会社より差押えられんようにしてやる、妻子の所有としてやる、安心せよ。それについては何か言い置く事はないか。言い置く事あるなら明日誰なり呼び出してやる。それなら妻を呼出していたゞきたい。それから府下中野町のウイリヤムソン師に神戸《かんべ》牧師を呼んでいただきたい。(冤罪の為今は覚悟して死に行くべき身の心の苦しさ)よろしいそれなら明日呼んでやろうと云うので、こゝに生れたのは第三の聴取書なのであります。之なる聴取書だとて並大抵ではありません。自分は殺して居らんものを殺したとして立つのですから、当惑しどう答えてよきやら、先方委せ、先方の云わるゝ儘になったのであります。然し根岸刑事なり署長さんがあゝまで云われたからとて、あとを見なければ中々に安心は出来んと思い起しました。
妻子を助けたき山々なれど、吾は如何せん冤罪の下にオメ/\と絞首台に上がらなければならんのか、あゝ、世は無常々々、人生は夢だ/\断念《あきら》めた。今更女々しき根性は出すまじ我もヤソ信者として妻子を助ける為に潔く絞首台に乗らなん」
[#ここで字下げ終わり]
支倉は委曲を尽して神楽坂署に置ける拷問の事実を挙げた。もしそれが事実なら無論許すべからざる事であるが、一体拷問せられた為に自白した事は裁判上無効か有効かは知らないが、拷問による自白だから虚偽であると云う事は直ちに云えないと思う。寧ろ苦痛の余り真実を述べると云う方が割合が多いのではなかろうか。
支倉は今神楽坂署に於ける自白は拷問によるものだから虚偽だと云う事を訴えているけれども、彼の自白が真実か虚偽かと云う事は拷問の有無と切放して考えられないだろうか。即ち拷問の有無は神楽坂署の責任問題として残るだろうけれども、犯罪事実の有無はそれを外にして依然として判官の心証に残るであろう。要するに支倉の自白が真《まこと》か嘘か。彼の自白の場面を見るとどうも心からしたものと思われるし、殊に拷問については神楽坂署で然る事実なしと簡単に片づけているのだから、支倉にとっては甚だ不利だ。
それに彼はこう云う訴えをする時期を失している。彼は予審廷へ出た当初述べれば好いものを、どうかして罪を逃れようと思って、あれこれと小策を弄し、最後に窮余の極こんな事を持出したのではないかと云われる所がある。且自白をした原因として罪なき妻子を助けたいと、くど/\書いてあるがもとより支倉は文筆の士ではなく、獄中匆卒の間に一気筆を呵したのだから、意余って筆尽さざる恨みは十分にあり、妻子を助けたいと云う意味は早く安心がさせたいと云う意味かも知れないが、真に妻子を助けたい為に冤罪を甘んじて受けたとすると、余りに常識のない話で、それこそ大正の聖代に罪が何も知らない妻子に及ぶ筈がなく、神楽坂署員もそんな非常識な事を云って彼を威かす筈もないのである。支倉の上願書は尚続く。
[#ここから2字下げ]
「さわれ絞首台に上がらずして、なんとかして妻子を助ける工夫はなきかと暫し考えたのであります。考えつきました。あります/\。我兎に角此後署長さんなり根岸、石子両刑事の処置を見ばやと吾は謀られまじ吾反って先を謀らん。謀《はかりごと》若し中途にして破れなば吾は絞首台に上らず自分から自害して男を見せん。夫れまでは吾は監獄に行き大福餠々々と精神病となり精神病者として取扱いを向う或期間受けん。自分所有の家屋妻子の所有とたりたらば、妻子はよもや今日々々の糊口には困るまじ(我死にて妻子を生かさん)精神病癒えなば死なずして吾又生きん。謀《はかりごと》破れなばよろこんで自分は自ら死をとらん、自害せんと第三の聴取書作成に稍一夜を費しました」
[#ここで字下げ終わり]
こゝの所はどうも意味がよく通じないが、要するに妻子が今日の糊口に差支ぬように、どうかして財産を完全に譲りたい、それについてはこゝで佯狂《ようきょう》となり大福餠々々と連呼して一先ず辛い責苦から逃れ、妻子に完全に財産が移るまで審理を延ばしていよう。もし事がならなければ自殺する許りだと云う意味らしく、彼は事実気狂を装うて掛官を手古摺らしたのだが、又以て彼がいかに妻子の身の上を思うていたかを察しる事が出来る。彼が妻子を思う念の切なのを利用して彼を白状させようとしたのが、神楽坂署員の云わば気転で、同時に深く支倉から恨まれた点であろう。
妻子の身の上を思う余り、虚偽の自白をする事は往々ある事であるが、それは多くの場合妻子が罪を犯している場合で、それを庇うべく自ら罪人となり名乗るのであろう。支倉の場合には妻子は何等罪を犯していないのだから、少しも庇う必要はない。警察で少し位苛酷な調べ方をせられたからと云って、又は単に財産を譲渡して後顧の憂いなきようにする為に、仮にも犯した覚えなき殺人の罪を自白するとは受取れぬ。
署員が支倉の妻子を思う情を旨く利用して彼に自白を迫ったのだと思う。それは上願書の続きを見るとよく分る。
支倉の上願書の次ぎにはこう書いてある。
[#ここから2字下げ]
「A、根岸刑事より小生に依頼の件、
お前は小林貞を殺したと云うて立ってくれ、背負ってくれ、お前が背負ってくれなければ私は署長さんへ対して顔向けが出来ん。どうか背負って行ってくれ、私を助けたと思ってたのむ/\。お前も男だろう。背負って行ってくれたなら俺も男だ。お前が今所有している家屋は聖書会社より差押えられないようにしてやる。そしてあれなる家屋を三千円にて売払い二千円にて小坂に田畑を求め、残り一千円を子供の養育金として銀行に貯蓄して、其利子で行くようにしてやる。妻子を助けてやる。お前はどうせ無罪では出獄できぬ身体、お前は死んで罪なき妻子を助けてやれと幾度となく諭されたのまれたのであります。又こんな事も云われています。俺はお前の為には随分なっているではないか。此間もお前の家の台所の煙突が破れた、修繕するのに金がないと云うからお前には話さなかったが、お前の所持金の内より十円お前の家内に下げてやっているのだ。それからお前の家に此間或者がお前から頼まれたと云って広告料印刷代として十一円を詐取しようとして来た者があったのだ。その時だってお前の家内を俺が助けてやって居るのだ。是程までに俺は御前の為に尽してやっているではないか。お前も男だろう背負って立てよ。お前も男だろう、宗教家だろう、背負って立てよ、背負って立ったなら、あれなるあの家屋をお前の妻子の所有にして此後共助けてやるからと呉々にも云われ、たのまれたのであります。
B、石子刑事より小生への依頼の件、
お前の宅へ行って俺が同行を求めた際に、お前が何と云う事なしに来ればよかったのに、お前の為に私は随分なっている筈だ。あの時だってお前の人格を私は思うたが為、殊更私はお前の家に私用名刺を通じていたではないか。それにも拘わらずお前が逃げたために、私は署長さんの前に顔向けが出来んのである。免職せなければならんように成っているのだ。お前は殺さずとも殺したとして立ってくれ。立ってくれゝばよいのだ。立ってくれさえすれば私が免職せずに済むのだ。お前は男だろう。宗教家だろう。私を助けてくれ、殺したと云うて背負って行って呉れと幾度となくたのまれたのであります」
[#ここで字下げ終わり]
以上は上願書中にある一断片だが、根岸、石子両刑事の方を質してみなくては分らぬ事だが、支倉の云う所は或る程度まで事実に違いない。両刑事は彼をどうかして自白させようと、或いは脅し、或いは誑《だま》し賺《す》かして妻子を枷《かせ》に彼を釣ったかも知れない。尤も之は聞く方のトリックで、場合によっては随分好くない事もあろうが、こんなトリックに乗ってうかと白状する方も、実は身に覚えがあって、どうかしてそれから逃れようと思っていればこそで、向うが隠すのだからトリックを弄するのも止むを得まい。合監に諜者を忍び込まして味方らしく持ち込んで、向うの信頼に乗じて秘密を喋らしたりするのよりは、面と向っているだけ罪が軽いと云える。
所で、支倉が云うように両刑事がペコ/\頭を下げて、どうか自分達を助けると思って罪を背負って呉れと繰返し頼んだかどうか疑問だが、どうもこの様子では両刑事が、お前は男だろうとか宗教家だろうとか煽《おだ》て上げ、自分達を助けると思って白状して呉れと哀れみを乞うように云ったかも知れない。
尤も両刑事の云っているのは真実の告白の事だが、支倉にはどう響いたか。この上願書の書き振りでは支倉も男だとグッと反り身になったかも知れない。そうなると、支倉に対する考えを鳥渡変えねばならぬかと思われる。
支倉とはどんな性格の男か。
つく/″\彼の言行を見るに、悪事にかけては中々抜目のない男で、それに犯罪性のあるものゝ通有性として、甚だ気が変り易い。気が変り易い一面には梃でも動かぬ執拗な所がある。対手がいつの間にか忘れていて、何の為に恨まれているのか分らぬ位なのに、まだ恨みつゞける。つまり目標を失した行動をやる。くど/\と一つの事を繰返す。こう云う人間は非常に大胆不敵の悪人に見えるが、飜然と悟ると涙を流したりする。支倉はそんな人間ではなかろうか。
上願書でくど/\と一つ事を繰返して、哀訴嘆願しているが一向にしめくゝりがない。筆蹟や文字を見ると中々しっかりしているようだが、文章となると要領を得ない所がある。読んでいるうちにふと煽てに乗り易い、所謂イージーな(容易な)男ではないかと云うような気がする。
殊に上願書の次の件の警吏との問答を読んで見ると、頗る飄逸な所があって、之が今死刑になるかならぬか、冤罪か有罪かと云う大切な瀬戸際を争っているものとは思えない。一面から云うと彼の容貌が頗る悪相なのと相俟って、裁判所を茶化すような大胆不敵の徒と見られるが、一面から見ると頭脳《あたま》のどこかに欠陥がありはしないかと思われる。支倉を大胆不敵の痴者と見るか、案外お人好しの煽てに乗り易い男と見るかは、彼の自白の虚実を確かめる上に重大な影響を及ぼすから、彼を全然知らない筆者には軽々しく云えないが、読者諸君は宜しく彼の上願書の全文を通読して、公平な判断を下して貰いたい。
「私は殺人罪を犯して居るものではありません。犯して居らぬものを犯している者と無理矢鱈に警察にては云え白状せよと注文せらるゝのですから、その虚実の申立てをなすにも誠に骨が折れました。先き様の問わるゝ儘に応答したのであります。
警 お前は小林貞が病院へ行く所を何処で待ち受けたか。
答 知りません。
警 知らん筈はない、清正公《せいしょうこう》前あたりか。
答 そうですね。清正公前の所、坂下で待受けました。
警 何時間待ったか。
答 そうですね。
警 一時間位も待ったか。
答 そうですね、約一時間程待受けました。
警 そうか、その時小林さだは如何なる着物を着て居ったか。
答 そうですね。能く気付きませんでした。
警 気付かん筈はない、シマかカスリか。
答 そうですね。シマだと思いました。
警 シマではあるまい、カスリだったろう。
答 そうかも知れません。
警 そのカスリはどんな模様だったか。
答 そのガラをよく気付きませんでした。
(逢わぬのですから知ろう筈はありません)
警 よし、それからどこへ連れて行ったか。
(当惑)
私の心では其時まだ清正公前に電車は通じて居らんものと思い、こゝに裁判へ廻りましてからの立証の道を見出し、乗らぬ電車に乗ったとしたのであります。豈図らんや、それは其折通じてあったとの事驚一驚。
答 電車に乗りました。
警 何処へ連れて行ったか。
答 赤坂の順天堂へ連れて行きました。
大正二年九月二十二日神戸氏に一百円を渡しやり、二十五日夕神戸氏宅にて証書取交せ、示談事ずみとなったのであります。それに支倉は何とて小林貞を病院へ連れて行く筈がない。こゝに裁判所へ廻ってからの立証道を見出したのであります。
警 それから病院を辞
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