易く、彼は、「神様は悪い事の味方しません」
と云って快く支倉と一緒に写っている写真を貸して呉れた。
石子は帰署して手に入れた写真を大島司法主任に差出すと、牛込細工町の自宅に帰った。
妻のきみ子はいそ/\と彼を迎えたが、やがて一通の封筒を差出した。書留速達で来たものだった。取上げて見ると、あゝ、又しても支倉からの手紙だった。彼は思わず力一杯畳の上に叩きつけた。妻は眼を丸くした。
内容は相も変らず嘲笑に充ちて居た。近いうちにお宅へお礼に出るなどと書いてあった。それにしても彼はどうして自分の宅の番地を知ったのであろうか。
呆気にとられている妻に手短に事情を話した末、石子は云った。
「こんな奴の事だから事によったら本当に俺の宅に来るかも知れない。無論俺の留守を覗って来るのだ」
「まあ嫌だ」
妻は顔をしかめた。
「馬鹿! 刑事の女房がそんな事でどうするのだ」
彼は苦笑いしながら、
「もし来たら、何食わぬ顔をして丁寧にもてなして上へ上げて、お前はお茶菓子でも買いに行くような風をして交番へ行くんだ。交番の方はよく頼んで置くから分ったかい」
「えゝ、もし来たらそうしますわ」
「よしじゃ俺は一寸交番へ行って来る。きゃつ事によったら、こゝの近所をうろついたかも知れない」
「君、こう云う奴が僕の事を何か聞かなかったかい」
交番に行くと石子刑事は、そこにいた顔馴染の巡査に支倉の容貌を委《くわ》しく話した。
「えゝ、来ましたよ。朝でした。丁度私の番の時です。そいつに違いないのです」
巡査は答えた。
彼の話によると、今朝方支倉はブラリとこの交番を訪ねて、繃帯をした腕を示しながら、
「私は此間電車から落ちてこの通り怪我をしたのですが、その節傍に居られた石子刑事さんに大へん御厄介になったのです。是非一度お訪ねしてお礼がしたいのですが、あの方のお住居は、どちらでしょうか」
と聞いたのだった。
で、巡査は委しく石子刑事の宅を教えたのである。
「繃帯をしていたって?」
石子は聞き咎めた。
「えゝ」
「怪我をしたようだったかい」
「そうですね、どうもそうらしかったですよ」
どうして怪我をしたのか知ら。二階から飛降りた時かしら。
石子は鳥渡考えて見たが、もとより分る筈がなかった。
「ではね、君、もし今度この辺をうろついていたら、早速捕まえて呉れ給え」
石子はそう云い置いて家に帰った。
翌日の午後、石子刑事が署に出ると、又しても書留速達の分厚い手紙を受取った。
「又かい」
根岸刑事がにや/\しながら聞いた。
「執拗《しつこ》い奴だね」
傍にいた大島主任が云った。
「あゝ、そう/\。君の持って来た写真は複写して、今朝各署へ配付したよ」
「そうでしたか」
石子は簡単に返事をして、静に手紙の封を切った。予期した通り中には嘲笑的な文句が充満していた。
「はがき有難うよ。十万円は用意してあるから、いつでも取りに来いよ」
と云う文句に突当ると、石子は鳥渡首を傾けたが、急に頓狂な声を出した。
「あいつは留守宅と連絡しています」
「何だって?」
主任が驚いたように聞いた。
石子は口早に十万円云々で腹立まぎれに留守宅へはがきを出した事を話した。
「その返辞が来たと云う訳だね」
根岸刑事は暫く腕を組んで考えていたが、
「もう一度写真屋の浅田を召喚しなければならぬ」
「一度喚んだのですか」
石子が聞いた。
「うん、君が奔走している間に一度喚んだのだがね、旨く云い抜けて中々本当の事を云わない。あいつも相当喰えない奴だよ。思う所があって態《わざ》と帰宅を許したのだがね。彼奴《きゃつ》の行動については渡辺刑事が気をつけている筈だよ」
「支倉の奴が私の宅の近所へ来たんですよ」
石子は思い出したように云った。
「交番で私の住所を調べやがってね。近々私の宅を訪ねると云うので女房は震え上っているんですよ。ハヽヽヽ」
この時扉が開いて一人の巡査が顔を出した。
「司法主任、電話です」
急いで出て行った大島警部補はやがて興奮した面持で帰って来た。
「北紺屋《きたこんや》署からだ」
彼は早口に云った。
「今朝配付の写真に該当する人物が、先般来度々同署へ出頭したそうだ」
「何、なんですって!」
根岸と石子の両刑事は同時に叫んだ。
「確にあなたの云われる通りの男です」
若い巡査はうなずいた。
石子刑事は北紺屋署の陰鬱なジメ/\した一室で彼に相対していた。
「三度来たと思います」
巡査は続けた。
「何でも車掌の不注意で電車から転がり落ちて、その為に腕に繃帯をしていましたし、医者の証明書見たいなものも持っていました」
「で、損害賠償でも取ろうと云うのですか」
余りの人もなげな振舞に石子刑事は唇を噛みながら聞いた。
「そうなのです。どうしても電気局|対手《あいて》に損害賠償を取るんだと云って、非常な権幕でした。然し私の見た所では大した傷でもないようだし、告訴までして騒ぐ程の事もなかろうと、穏かに示談にしたらいゝだろうと勧めたのです」
「それでどうしました」
「いや実に執拗い男でね、警察は誠意がないとか、弱いものをいじめるとか、喚き立てましてね、閉口しました。然し結局告訴するにはいろ/\面倒な手続きがいる事が分ると渋々帰って行きました」
何と云う大胆不敵な奴だろう。逃亡中のお尋ね者の身体で、例え所を隔てた他署とは云え、警察署へ堂々と出頭して、而も強硬な態度で喚き立てたりしたとは!
石子刑事は云う所を知らなかった。
若い巡査は気の毒そうに云った。
「そんな奴と知れば勿論捕えるのでしたが、少しも知らなかったものですから。それにしても警察へ出て来るなんて、実に驚くべき奴ですね」
石子刑事は頭をうなだれて北紺屋署を出た。
帰署して委細を司法主任に報告すると、主任は口惜しそうに云った。
「もう少し早く写真が手に這入ると、捕まったんだなあ」
根岸刑事は無表情な顔をして黙っていた。
石子は根岸の冷然とした態度が少し癪に障ったけれども、考えて見ると写真の事に気がつかなかったのは全く自分の落度だから仕方がない。彼は面目なげに頭を掻いた。
「どうも相すみませんでした」
「何、失敗は成功の母さ。君がそれだけ経験を得た事になるのさ。ハヽヽヽ」
司法主任は磊落《らいらく》に笑ったが、直ぐに語気を変えて根岸を省みながら、
「然し何だね。これ位大胆不敵な奴は珍しいね。之が無学な奴なら前後の考えもなく無茶でやったと云う事が出来るかも知れんが、奴は充分学識があるのだからね、全く警察を軽蔑しているのだよ。電車から落ちて腕を少し怪我した位で、お尋ね者の身体で損害賠償を取りに警察へ出て来るとは随分好い度胸だね」
「人を舐《な》めた奴ですよ」
根岸は相変らず冷然と答えた。
「実に人を食った奴だ」
石子刑事は独言のように叫んだ。彼は支倉に愚弄されている自分の哀れな姿を思うと、腹立たしさに堪えなかった。今に見ろ! と心の中で叫んでいた。
突然扉が開いて、蒼い顔をした渡辺刑事がよろめくように這入って来た。
「ど、どうしたんだ」
流石の根岸も驚きながら聞いた。
「逃がしたのです。あの写真師を――彼奴《あいつ》は又支倉の家へ行きました。出て来たのを尾行すると彼は宅の前を通り過ぎてグン/\歩いて行くのです。所が私は巧に撒かれて終《しま》ったのです」
渡辺刑事は溜息をつきながら一座を見廻した。
旧悪
支倉喜平の一件は署内でも評判になった。勢い大島司法主任は署長に逐一報告しなければならなかった。
「怪《け》しからん奴だ」
話のすむのをもじ/\して待っていた署長は年の割に毛の薄い頭から湯気でも立てるように赫《か》っとして、早口の北陸訛りで怒鳴った。
「そんなやつを抛っとくちゅうやつがあるもんか、関《かま》わん、署員総がゝりで逮捕するんだ」
署長と云うのは、つい一週間程前に堀留署から転任した人だった。前任地では管内の博徒を顫え上らした人で、真っすぐな竹を割ったような気性の人で、よく物の分る半面には中々譲らない所があり、場合によると非常に熱狂的な快男児だった。庄司利喜太郎と云えば無論知っている人がある筈だ。後に警視庁の重要な位置を占めた人である。不祥な事件に責を負って潔《いさぎよ》く誰一人惜しまないもののないうちに、警察界を引退した人だが、当時は大学を出て五、六年の三十二三歳の血気盛りで、こうと思えば貫かぬ事のない時代だった。
「そう云う奴は君」
暫くして庄司署長は云った。
「きっと前にも悪い事をしているに違いない。少し身許を洗って見たらどうだ」
「私もやって見ようと思っていた所でした」
署長の慧眼を称えるように司法主任は答えた。
署長の見込は外れなかった。支倉の本籍山形県へ照会すると、果して彼は窃盗の前科三犯を重ねた曲者だった。宣教師の資格も正式に持っているかどうか疑わしかった。
石子刑事は直ちに彼の上京以来の行動の探査を始めた。
彼は毎日のように支倉からの嘲弄の手紙を受取って、彼の行方を突留ることの出来ない腑甲斐《ふがい》なさに歯ぎしりをしながら、方々を駆け廻って、それからそれへと溯って、支倉の昔の跡を嗅ぎ廻った。
支倉は三光町へ来る前は高輪にいた。高輪の前には神田にいた。神田の前には横浜にいた。所が不思議な事には彼は前住地の三ヵ所でいつでも極って火事に遭っているのだった。
横浜の場合は全焼、神田と高輪の場合は半焼けだった。高輪の時は附近の人に質《たゞ》すと確に半焼けであるにも係わらず、保険会社では動産保険の全額を支払っていた。神田の時は支倉の隣家の人が放火をしたのだと錦町署へ密告したものがあった。その為に隣家の人は一週間程同署へ留めて置かれたが、結局証拠不十分で、のみならず、支倉が同情して、身柄引下を嘆願に来たりしたので、彼は間もなく放免されたような事実があった。
こう云う事実を突留た石子刑事は久々で自宅の居間に坐って、じっと腕を組んで考えた。
火事に遭った事は偶然だろうか。偶然でないとは云えないけれども、三度が三度ながら火事に遭って、いつでも少からぬ保険金を受取っているのは偶然以上ではなかろうか。尚調べた所によると彼は収入以上の贅沢な暮しをしている。それに現在の大きな家も彼の所有であるし、外に家作を持っている。聖書を盗んだ高も中々の額に上っているようだが、その外に何かの手段で金を得なければあれだけの財産は出来ない。尤も財産を作るには利殖の方法もあるし、比《たと》えば定期市場に手を出すような方法もあるから、一概には云えないが、三度の火事は疑えば疑えない事はない。彼の今までのやり方を見れば保険金詐取の放火である事が殆ど確実ではないか。
石子が火鉢の前で考えに沈んでいると、表戸がガラリと開いた。
「郵便かしら」
表戸がガラリと開いたので、妻のきみ子はぞっとしたようにそう云って立上った。
「郵便じゃなかったわ」
やがて晴々した顔で彼女が這入って来た。後には岸本青年がニコ/\しながら従っていた。
石子は彼の姿を見ると、機嫌よく言葉をかけた。
「やあ、よく来たね」
「大へん御無沙汰いたしました」
岸本はすゝめられた座蒲団を敷きながら、
「何だかお顔色が悪いじゃありませんか」
「うん、君のいつか話した聖書泥棒だね。あいつで今手こずっているんだよ」
「そうですか、未だ誰だか分らないのですか」
岸本は眼鏡越しに愛くるしい眼を無邪気に光らせながら聞いた。
「何、犯人は分っているんだが、捕まらないので弱っているんだ」
「そうですか。一体何と云う奴なんです」
「支倉喜平と云う奴なんだ」
「えっ、支倉?」
「そうだよ。君知ってるのかい」
「知っています。矢張りあれでしたか。どうも評判の好くない人でね。若い者にはすっかり嫌われているのです。所が教会の老人組と来た日には事勿《ことなか》れ主義でね。それに少し嘘涙でも流して見せようものなら、すぐ胡魔化されるのですから――それで何ですか支倉は逃げたんですか」
「僕が逃がしちゃってね、いや
前へ
次へ
全43ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング