はや大弱りなのだ。実に大胆不敵で悪智恵の勝れた奴でね。こゝだけの話だが、実はとても俺の手に合いそうもないのだよ」
「そんな事はありますまいが」
 岸本はニコリと笑ったが、急に真面目になって、
「本当にそんな悪い奴なのですか」
「悪いにも何にも、大悪党だ」
「そうですか。もしそうだとすると少し話があるのですが」
「支倉についてかね」
「そうです」
「どう云う話なんだね」
 石子は思わず首を前へ突き出した。
「御承知の通り私は四年生まで城北中学にいましたが、小林と云う理科の先生がありましてね、基督教信者でしたが、娘さんの確《たしか》貞子と云いましたが、それを行儀見習いに支倉の所へ女中に出したのです。三年前の事ですが、娘さんは十六位でした。私も未だ不良だった時代ですから、トテシャンだとか、いや何だとか云って騒いでは、不良仲間と一緒に手紙を送ったりして、先生を心配さしたものです。内気な可愛い娘さんでしたよ」
 岸本は鳥渡顔を赤らめたが、すぐ真顔になって、
「その娘さんが間もなく家出して、未だに行方不明なのです」
「え、その家出と云うのも支倉の家をかい」
「いゝえ、そうではないらしいのです」
 岸本も委しい事は知らなかったが、何でもその貞子と云う娘が、支倉に奉公中病気になって、その為に暇を貰って、知合の宅《うち》から毎日病院に通っていたが、ある朝いつものように病院に行くと云って家を出たまゝ帰らなかった。
 それからもう三年経つが、未だに行方不明というのだった。
「もしかすると支倉がどうかしたんじゃないでしょうか」
 岸本は不安そうに云った。

 可憐な娘が行方不明になったのは支倉が誘拐でもしたのではないかと云う岸本の言葉に、石子刑事は、
「さあ」
 と云って腕を組んだ。
 支倉の家に女中をしているうちに行方不明にでもなったのなら格別、病気の為に暇を取って帰ってからの事だとすると、濫《みだ》りに支倉を疑う訳には行かない。然し今までの支倉の不敵な行動と、いろ/\疑わしい前身を考え合せて見ると、女中の家出と云う一見ありふれた事件ながら、直に無関係と極めて終う訳にも行かない。女中の病気は何か、どうして病気になったか。家出当時の状況など一応取調べて見ねばなるまい。
 石子刑事は腕組を解いて顔を上げた。
「その小林と云う先生は今でも学校にいるのかい」
「えゝ、相変らず動植物を受持って、生徒に馬鹿にされているのですよ」
「どこだね、住居は」
「江戸川橋の近所です。確か水道端町だと思いました」
「その娘さんは何病だったか知らないかい」
「それでね、妙な噂があるのですよ」
 岸本は声をひそめながら、
「花柳病らしいと云うのです」
「ふーン、十六の娘がね」
 石子は首を傾けた。
「不良中学生なんて云うものはどこから聞出して来るか、いろんな事を知ってるものですよ。それに先生の娘さんがシャンだなんて騒いでいたのでしょう。支倉へ行ってからも行動は大小となく探り出して来るのですよ」
 岸本の噂の聞覚えや、推測によるとその娘は支倉に犯されて忌まわしい病気になったのではないかと云うのだった。
「同級生にひどい奴がありましてね、そいつはある名士の息子なんですが、少し低能で二十いくつかで四年級だったのです。そいつが時間中に小林先生に娘さんの御病気は何ですかと大きな声で聞きましてね、その時、小林先生の今にも泣き出しそうに口を歪めた、何とも名状すべからざる気の毒な顔は今でも覚えています」
「ふーん、いや好《い》い事を知らして呉れた」
 石子刑事は再び腕を組んで、深く考えに陥ち込んだ。
 岸本青年は所在なさに細君に話しかけた。
「奥さん、何か面白い話はありませんか」
「えゝ、別にありませんね。私もね、今の話の支倉と云う人から威《おど》かされているんですよ」
「えっ、どうして?」
「始中終《しょっちゅう》脅迫状みたいなものが来るんですよ」
 きみ子は眉をひそめながら、
「今にお前の宅へお礼に行くから待って居ろなんて、そりゃ凄い事が書いてあるんです」
「へえー、ひどい奴だなあ」
 岸本は呆れたように云った。
「ですから私毎日ビク/\してるのよ」
 きみ子は淋しそうな顔をした。
 石子は二人の話声が耳に這入らないようにじっと考え込んでいた。
 三年前の女中の失踪。誘拐されたか、自殺したか、それとも殺されたか、いずれにしても死んだのなら死体が出そうなものだ。親の身として似寄りの死体が出たら、きっと見に行った事であろう。死体の出ないのは未だ生きているのか。
 疑問の怪物支倉の女中の謎の失踪。こりゃ愈※[#二の字点、1−2−22]むずかしくなって来たぞ。
 石子刑事は思わずうーむと唸った。

 岸本から三年前に支倉方の女中が行方不明になった事を聞いた翌晩、石子刑事は女中の父親である城北中学の教師小林氏の自宅を訪ねた。
 面長の頬骨の出た生活に疲れたような小林氏は、乱雑に古ぼけた書物の積上げてある壁の落ちた床の間を背にして、眼をしばたゝきながら、ポツリ/\と話した。
「仰せの通りあれが行方不明になりましたのは丁度三年前です。この頃はもう諦めましてな、成る可く思い出さないようにしているのです。
 貞子は長女です。兄が一人ありますが、之はお恥かしい次第ですが、すっかりグレて終《しま》いましてな、結局あなた方の御厄介になるのではないかと心配しています。弟の方は只今中学に参って居ります。妹はまだ小学校です。あれは内気な病身と云った性質だったものですから、それに御覧の通り貧乏ではありますし、学校を中途で引かせまして、幸い世話して呉れる人があって、支倉さんへ行儀見習いと云う事で差出したのでした」
 陰気な部屋でそれに電燈も暗かったが、小林氏の話振りには何かこう陰惨な所があって、引入れられるような気がするのを不思議に思っていた石子は、ふと気がつくと、小林氏の黒ずんだ歯並びの悪い歯の中で上の二本の犬歯、俗に云う糸切歯が勝れて長く、それが口を開く度に異様な妖怪じみた印象を与える為だった。
「所が」
 小林氏は一向そんな事に気づかないで相変らず異様な犬歯をチラつかせながら、
「全く以て思いもかけぬ事でした。尤も娘は身体は大きい方でしたが、何を云うにも十六と云う年ですし、支倉さんは宣教師と云う教職に居られるのですし、間違いがあるなどとは夢にも思っていませんでした。それが」
 小林氏はこゝで鳥渡《ちょっと》言葉を切って、云い憎そうにした。
「そんな風の事を鳥渡聞きました」
 石子刑事はやはりそうだったのかと思いながら、小林氏に気易く話させるように、態《わざ》と事もなげに云ったのだった。
「もう、お聞きでしたか。お恥かしい次第です」
 小林氏の話によると貞子は支倉の為に暴力をもって辱かしめられたのだった。そして忌まわしい病気を感染された為に働く事が出来なくなり、暇を貰って知合の家から病院通いをしなければならなかったのだった。流石《さすが》の石子も只《たゞ》あきれて聞く許《ばか》りだった。
「三年前の一月末でした。夜遅く貞を預けてあった知り合の家から使がありまして、貞はこっちへ来てないかと云うのです。だん/\わけを聞きますと、朝いつもの通り病院へ行くと云って出たきり帰って来ないので、病院初め心当りは皆訪ねたけれども、どこへも立寄った形跡がないと云うのです」
 それから小林氏の方でも手を分けて、訪ね廻ったが、一向手懸りがない。無論置手紙もないし、はがき一本寄越して来ない。警察へも捜索願を出したが、杳《よう》として消息がないのだった。
「死んだものと諦めているのです」
 小林氏は眼を瞬きながら、
「子供心にも恥しいとでも思いましたか、投身でもしたのでしょう」
「そのお知合と云うのはどう云う関係なんですか」
「貞を支倉へ世話をして呉れた人でしてね。貞が治るまでの費用は支倉の方で出すと云う事になっていたので、中に這入って貞を預かって呉れたのでした」
 小林氏の話振が陰気なのと、ニョッキリ出た犬歯が何となく容貌を奇怪に見せるので、暗い電燈が段々暗くなるような気がするのだったが、石子刑事は尚も熱心に問い質《たゞ》した。
「立入って聞きますが、その辱しめられた事や病気をうつされた事などは当人からお聞きでしたか」
「後には本人にも云わせましたが、初めに気づきましたのは私の弟なのです。こいつは誠に手のつけられない奴で、酒から身を持ち崩して今は無頼漢《ごろつき》同様になって居ります。誠に重々恥しい事ばかりです。こいつが、無論私の所へも毎度無心に参りますが、貞の支倉に居た時分には時々その方へも無心に参ったのです。で、蛇《じゃ》の道は蛇《へび》とやら云って、悪い奴ですから悪い事には直ぐ気がつきます。貞を威しすかしてすっかり様子を聞いたのです。それから奴は度々支倉さんの所へ出かけて、無心を吹きかけたようでした」
 支倉を強請《ゆす》って金にするとは上には上があるものだと感心しながら、石子刑事は膝を進めた。
「その弟御さんと云うのは東京にお出《いで》ですか」
「えゝ、神田に居るのですが」
 困った事を耳に入れたと云う風で、小林氏は後を濁した。
「御住所を教えて頂けませんでしょうか」
 刑事の依頼に今更取消す訳にも行かず、呉々《くれ/″\》も弟の不利益にならないようにと頼んだ末、小林氏は住所を委《くわ》しく話した。石子はこれを書留めて家を辞した。いつの間にやら大分夜が更けていた。
 翌朝石子刑事は神田三崎町に小林定次郎を訪ねた。
 変にゴミ/\したような感じのする横丁を這入って行くと、軒の傾きかけたような車宿《くるまやど》があった。
 そこの二階の一室に彼はいたのだった。
 ギシリ/\と粗末な梯子段を軋らせながら、窮屈そうに降りて来た彼は、石子刑事を見てペコンと頭を下げた。朝から酒気を帯びていた。
「警察の旦那ですか。あっしゃ近頃御厄介になるような事はいたしやせんが」
 どっちかと云うと丸い肉附きの好い、見るから酒毒で爛《たゞ》れたと云う赤ら顔や、はだけた胸のだらしなさは、痩せて仙骨を帯びたと云った風の兄の小林氏とはこれが兄弟かと疑われる程似もつかなかったが、口を開くと二本の異様な長い犬歯が現われて、血統のものにちがいないことを語っているようだった。
「何、心配するような事じゃないのだ」
 石子刑事は気軽く云った。
「鳥渡《ちょっと》内密に聞きたい事があるのだがね」
「そうですかい。じゃ、すみませんが上って下さい。汚いのなんのって、珍しく汚いのですから、そのお積りで」
 二階裏の一室は立てば忽ち頭を打つような窮屈さだった。剥出《むきだ》しの曲りくねった垂木には一寸程も埃が積もっていた。
「支倉の奴ですかい」
 石子刑事が切り出すと彼は忽ち大声を出した。
「旦那、あんな悪党はありませんぜ。あれが耶蘇の説教師だていから驚きまさあ」
「支倉にいた親類の娘さんが行方不明になったそうだね」
「えゝ、あの野郎め、未だやっと十六になった許《ばか》りの姪を手籠めにしやがって、挙句の果にどっかへ誘《おび》き出して殺して終《しま》いやがったんでさあ」

 定次郎の放言には石子刑事も驚いた。
「オイ/\、声が大きいぜ、滅多な事を云うなよ」
「へえ、すみません。実はわっちの方にも之と云う手証《てしょう》がねえもんですから、仰せの通り大きな声は出せねえのです。少しでも証拠がありゃ、今まで黙っちゃいないのです。
 一体《いってえ》兄貴が意気地がねえもんだから、現在の娘をあんな眼に遭わされて、運命だ、いや荒立てゝは身の恥だなんて、中学校の先生なんてものはみんなあんなもんですかねえ。だから、あっしゃ見ちゃいられねえのです。姪を元の身体《からだ》にして返せとまあ、旦那、談判に出かけたもんです。支倉の奴は木で鼻を縛《くゝ》ったような挨拶をしやがったが、おかみさんが分った方《ひと》でねえ、病気の方は医者にかけて治療させると云う事になって姪の奴は一先ず世話した人の宅へ引取って、それから病院に通わせると云う事になったのです」
「それから」
「それから、その詫《わび》の印《
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