に考えねばならんぞ。こんな嘲弄的な言葉を書いて送って、捜索の方針を胡魔化す積りかも知れない。こう云う時こそ反って彼奴《きゃつ》の家を厳重に見張る必要があるのだ」
其夜、石子と渡辺は特に八時頃から支倉の家を見張る事にした。生憎朝からドンヨリと曇り、寒空で、夜になってからは身を切るような木枯がピュウ/\吹いて来た。二人は帽子を眉深《まぶか》く被って襟巻に顋《あご》を埋めながら、通行人に疑われないように何気ない風をして家の附近をブラリ/\と歩いていた。連日の疲労と焦慮で二人はゲッソリ痩せていた。
主人のいない支倉の家はシーンとしていた。
細君は無論の事、女中さえも外出しない。出入りをする御用商人もなければ訪ねる客もなかった。夜が更けて来るにつれて往来の人も杜絶えて、万物皆凍りついたかと思われるようだった。
「今晩も駄目か」
落胆したように渡辺刑事が囁いた。
落胆した渡辺刑事を慰めるように石子刑事は態《わざ》と元気よく答えた。
「未だ落胆するには早い。今晩はきっと来るよ」
然し十二時を過ぎるまで予期した支倉は遂に姿を現わさなかった。人と云っては只一人、宴会帰りの学生らしいのが、朴歯《ほおば》の下駄をカラコロ/\と引摺って、刑事の跼《かが》んでいる暗闇を薄気味悪そうに透して見て通ったきりだった。
石子刑事は泣き出したいような気持だった。同じ気持の渡辺に何か話しかけようと思って捩《ね》じ向くと、遙か向うの方から怪しい人影が見えた。彼はブラ/\とこっちへ向って来る。
石子刑事ははっと緊張した。
怪しい影はだん/\近づいて来た。二重廻しにすっかり身体《からだ》を包んで、片手に風呂敷包を抱えているらしいのがチラと見える。鳥打帽子を眉深に被っているが、色白の年の若い男で、支倉とは似もつかなかった。石子刑事は落胆した。
怪しい男はちっとも気のつかない様子で刑事達の前を通り過ぎると、支倉の家に近づいたが、彼は何の躊躇もなくツカ/\と門内へ這入った。
石子刑事は勇躍した。
さっきから様子を見ていた渡辺刑事も喜色を面に浮べながら、
「とう/\やって来たな、だがあいつは支倉じゃないね?」
「違う」
石子は微笑ながら答えた。
「然し、関係のある奴に相違ない」
「兎に角出て来る所を押えよう。此間のような目に遭うといけないから、僕は庭の方を警戒しているよ」
「そうだ。今度逃がすと大変だ」
石子は苦笑いしながら、
「じゃ庭の方を頼むぜ」
二人は裏と表とに別れて、怪漢の出て来るのをじっと待っていた。
当もなく待っているのも随分辛くもあり、長くもあったが、当があって今か今かと待ち設《もう》けるのはそれ以上に長く辛かった。一分が十分にも三十分にも思えるのだった。四晩の辛労に肝腎の巨魁を捕える事は出来なかったが、確にその片割れと思える男を取押える事が出来るのであるから、両刑事の胸は躍っていた。それだけ一刻も早く彼の出て来るのが待たれるのだった。
実際では三十分余り、石子刑事には三時間も待ったかと思われる頃、植込を通して玄関にほんのりと燈火《あかり》がさして、人の出て来る気配がした。渡辺刑事も早く察したと見えて、門の方へ引返して来た。
門から出て来たのは確に先刻の男だった。風呂敷包はそのまゝ持って来たらしく、それに先刻のように抱えていない、ブラリと提げているので、半分以上二重廻しの下からはみ出していた。薄べったい角張ったものらしい。
彼が門外へ踏み出して三、四間歩くと、待構えた石子と渡辺は左右から包囲するように彼に近づいた。
「もし/\」
石子刑事が先ず声をかけた。
怪しい男は吃驚《びっくり》して飛上った。もう少しで風呂敷包を取り落す所だった。
「いや心配しないで宜しい。僕達は刑事なんだ。鳥渡聞きたい事があるんだがね」
石子は静かに云った。
「はあ」
彼は二人の刑事の顔を見くらべながらおど/\と答えた。
「君の住所と名前を云って呉れ給え」
「白金三光町二十六番地、浅田順一です」
「職業は?」
「写真師です」
「何、写真師?」
深夜の支倉邸に出入した怪しい男は石子刑事の訊問に平然と答えた。
「そうです。ついこの先の写真館です」
「ふむ、で、何の用でこの夜更にこゝへ来たのかね」
石子刑事は意気込んで訊ねた。
「奥さんの写真の焼増が出来上ったので持って来たのです」
「その風呂敷包はなんだね」
「之ですか之は見本帳です」
彼は進んで風呂敷包を拡げて見せた。彼の云った通り大形の帳面でいろ/\の写真が張りつけてあった。
「それにしてもこんな夜更けに来たのはどう云う訳だ。第一ここの主人は留守ではないか」
「御主人のことは知りませんが、今朝奥さんが急に焼増をたのまれまして、どんなに遅くても今日中に届けて呉れと云われましたので、以前から御贔屓《ごひいき》になっていますから止むを得ずお引受したのです」
彼の答えは澱《よど》みがなかった。石子はそっと渡辺の顔を見た。
確に支倉に関係ある男と睨んで深夜に取押えた怪漢が、思いがけなく附近の写真館の主人だったので、石子刑事は落胆して終《しま》った。それは彼の返答に曖昧な所がなく、警察署へ同行を求める口実もないので、そのまゝ帰すより仕方がなかった。
石子は渡辺刑事の顔を覗ったが、渡辺にも格別好い智恵がないらしかった。
「どうも失礼、よく分りました」
石子刑事は写真師に云った。口惜しそうな調子は隠す事が出来なかった。
写真師は別に嬉しそうでもなく、腹を立てたと云うでもなく、黙って一礼するとさっさと歩いて行った。
渡辺刑事は如才なくそっと彼の跡を追った。
暫くすると刑事は帰って来た。
「確に浅田写真館の中へ這入ったよ」
渡辺は茫然《ぼんやり》している石子にそう云った。
二人はもう之以上見張りを続ける勇気がなくなった。夜が明けるのを待兼ねて二人はそれ/″\宿所へ引上げた。
石子刑事が一眠りして正午近く神楽坂署へ出ると、書留速達の分厚の封筒を受取った。それは又しても見覚えのある支倉からの手紙だった。石子はちょっと舌打しながら封を切った。
手紙には矢張以前のように嘲笑的言辞で充ちていた。が、三度目ではあるし、始めての時程は腹も立てなかった。
が、翌朝再び支倉から分厚の手紙を受取った時には流石の石子刑事は彼の執拗さには呆れざるを得なかった。手紙は無論その都度消印を調べるのだけれども、一つ一つ差出局が違っていて、浅草だったり神田だったり、麹町だったりしたので、何の手懸りにもならなかった。
手紙には相変らず嘲弄的な事が書並《かきつら》ねてあった。石子刑事はふゝんと嘲笑い返しながら読んでいたが、次の一句に突当ると、彼の忿懣《ふんまん》はその極に達した。
「青き猟師よ。汝の如き未熟の腕にて余の如き大鹿がどうして打とめ得られようぞ。万一打留め得られたら、余は汝に金十万円を与えよう」
重ね/″\の侮辱に若い石子刑事は、もう我慢がならなかった。彼は果して支倉の手に這入るものやら、又そんな事が捜索上無益か有害かそんな事を考えている余裕もなく、支倉の留守宅へ宛て返事を書いた。
「手紙見た。丁度金の欲しい所であるから、折角の十万円頂戴する事にしよう。忘れずに用意をして置け」
手紙はそんな意味だった。
支倉喜平の大胆不敵の振舞に少しく不安を感じた石子刑事は渡辺刑事と相談の上、遂に委細を司法主任の大島警部補に報告した。
「ふん」
赤ら顔の大島主任は眉をひそめて、
「成程、そいつは厄介な奴だ。抛って置いては警察の威信にかかわる。出来るだけ早く捕えて終おう。ついては石子君、決して君の手腕を疑う訳ではないが、こいつは一つ根岸君に加勢して貰おうじゃないか。こう云う横着な奴にはどうしても老練家が必要だからね」
根岸と云うのは当時署内切っての老練な刑事で、警察界には二十年近くもいるのだった。他署で鳥渡|失策《しくじ》った事があって、官服に落されようとしたのを危く免れてこの署に転勤して、私服予備と云う刑事よりも一段低い位置にいた時にすら署内の刑事残らず指揮した程だった。石子は根岸とは親しい仲だったので格別不服はなかった。
「徹宵の張り番とは中々骨を折ったね」
話を聞いた痩ぎすの根岸刑事は、浅黒い顔を緊張させながら石子刑事に云った。
「然し張込みは対手に悟られると効果が薄いよ。兎に角隣近所や出入の商人に監視を頼んで置くのが好い。こう云う場合に本人が普段近所に評判が好いんだと鳥渡困るがね、逆だと非常に都合が好いんだ、進んで知らして呉れるからね。それから写真を早く手に入れて各署へ廻して置かねばいけない。それから君の押えた写真師、浅田とか云った男だね、そいつは十分調べて見る価値があるね」
石子刑事は根岸の言葉を噛みしめるように黙々として聞いていた。
二月初めの陰鬱な空から粉雪がチラ/\していた。
石子刑事は早朝から白金三光町の支倉の家の近隣を歩いて四五軒の家に、支倉の監視をたのみまわった。
意外だった事には彼が事情の概略を話して、支倉主人が帰って来た形跡があったり、又支倉の家に何か変った事が起ったら、早速警察へ知らして貰いたいと云う事を依頼すると、いずれも快よく引受けて呉れた事だった。彼等の口裏から察しると、支倉はどうした訳か近所の人達からよく思われていないようだった。
こんな事なら三晩も四晩も徹宵見張りをする事はなかったと後悔しながら、それでも案外旨く事の運んだのを喜びながら、石子は写真を手に入れる為に支倉の家に向った。
支倉の細君は石子の姿を見ると不愉快な表情をしたが、然し調子よく彼を迎えて奥の一間へ通した。石子刑事は高圧的にすべての写真を取り出す事を命じた。細君は唯々として分厚い写真帳や古ぼけた写真を彼の目の前に運んだ。
写真帳を繰っているうちに、石子刑事は思わずあっと叫んだ。
それは半ば口惜しい叫声で、半ば感嘆の叫声だった。写真帳のどの部分からも支倉自身の写真と思われるものは尽《こと/″\》く引裂かれているのだった。
何と云う抜け目のない悪人だろうか。
写真帳からは彼の一人写しは無論、二、三人で写しているのや、大勢と一緒に写している写真の彼の姿と思われる部分はすっかり引裂いてあった。無論手箱の中に収められたキャビネや手札形の写真の中には彼の姿の片鱗さえなかった。いつの間に之だけの周到な用意をしたのだろうか。
石子刑事は何気なく聞いた。
「奥さん、此間のあなたの焼増はどれですか」
「それはあの」
彼女はドギマギしながら、
「お友達の所へ送って終《しま》いました」
石子刑事は細君の顔色をじっと観察した。それから半ば引裂かれた写真の台紙に残っている写真館の名を手帳に控えて外に出た。
それから彼は手帳に記された二、三の写真館を訪ねた。驚いた事にはどの写真館でも石子刑事の求める種板はすべて最近に買収せられていた。無論支倉の仕業に相違ない、余りの彼の機敏さに石子刑事は茫然とした。
けれども彼はこんな事では屈しなかった。
彼の頭脳《あたま》には半ば引裂かれた一葉の写真が記憶に残っていた。それは支倉が四、五人の宣教師仲間と写したものらしく、無論彼自身の姿は引裂いてあったが、右の端に白髪の外国人が端然と腰をかけていた。外人宣教師は数も少いし、支倉の派に属するものとすれば一層範囲は狭められるし、殊に白髪の老人と云う特徴があるから、どうにか尋ね出せそうに思われた。
彼は二、三の教会を尋ね廻った。そうしてそれがどうやら府下中野の中野教会のウイリヤムソンと云う牧師らしい事が分った。
石子刑事はその足ですぐに中野に向った。短い冬の日はもう暮れかゝっていた。
中野教会でウイリヤムソンの所を聞いて狭苦しい横丁を幾曲りかしながら、彼の宅を訪ねると幸い彼は在宅だった。遭って見ると確に写真の老人に相違なかった。
対手が外国人だし、宣教師と云う職にある人だし、聞き届けて呉れるかどうか危ぶみながら支倉の逃亡した話をして、一緒に写している写真を貸して貰いたいと切出すと、案じるより生《うむ》が
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