いる石子の前に現われた。
「どうぞお通り下さいまし」
第一の難関は見事に突破された。彼はホッと息をついた。
通されたのは奥まった離座敷だった。六畳敷きほどの広さの小ぢんまりとした部屋は床の間の基督《キリスト》受難の掛軸や、壁間の聖母《マリア》の画像や違棚の金縁背皮の厚い聖書らしい書物など、宣教師らしい好みで飾られていた。
やがて、ノッシ/\と現われて来たのは中肉中背ではあるが、褞袍《どてら》姿の見るからに頑丈そうな毬栗《いがぐり》頭の入道で、色飽くまで黒く、濃い眉毛に大きな眼をギロリとさせた、中世紀の悪僧を思わせるような男だった。
書店や車宿で大凡《おおよそ》の風貌を聞いて想像していた石子刑事も彼を見ると稍たじろいだ。もし初対面で彼を見る人があったら誰が彼を宣教師と思う人があるだろうか。
「先生でございますか」
石子刑事は聞いた。
「支倉です」
彼は上座にむずと坐って爛々たる眼を輝かした。
「実は私は警察の者です」
石子刑事は寸刻の隙を与えず、然し平然と彼を見やりながら、
「玄関でそう申しては召使いの人に対して御迷惑と存じましたので態《わざ》と申上げなかったのですが」
「はあ、警察の方が何の用事があるのですか」
流石《さすが》に少し狼狽の色を見せながら彼は答えた。
「実は牛込神楽坂署の署長が是非あなたにお会いしてお聞きしたい事がありますので、私に署までお伴《つ》れするようにと云いつかったのです」
小兵ながらも精悍の気の全身に漲《みなぎ》っている石子刑事は色白の顔に稍赤味を帯びさせて、丸い眼を隼のように輝かせながら、否か応か、大きな口をへの字に結んでいる支倉の顔をきっと仰ぎ見た。
鳥渡《ちょっと》狼狽の色を見せた支倉は忽《たちま》ち元の冷静な態度に帰って、梃《てこ》でも動かぬと云う風だった。
「警察へ行くような覚えは更にないが、何か聞きたい事があればこちらへ来られてはどうですか」
彼の声は身体に相応《ふさわ》しい太い濁声《だみごえ》で、ひどい奥州訛りのあるのが、一層彼をいかつく見せた。
「ご尤もです」
石子はうなずいて見せた。
「然し署長は何分多忙な身体ですから、お出でが願えると好都合なのですが」
「もし嫌だと申したらどうするのですか」
「それは大変困るのです。是非どうか――」
「一体どう云う用事なのですか」
「それは私に分りませんのです」
「ふうん」
支倉は暫く睨むように刑事を見ていたが、
「お気の毒じゃがお断りしましょう。いやしくも聖職に奉じているものが、用事の内容が分らないで、軽々しく警察に行く事は出来ません」
押問答の中に時間はどん/\経つ。約束の時間になれば渡辺刑事がやって来る。下手な事をやられて、変に勘違いをされたり、依怙地《いこじ》になられては困って終《しま》う。石子刑事は、気が気ではなかった。重ねて口を開こうとするとたんに玄関で案内を乞う声が聞えた。
「ご免下さい」
確に渡辺刑事の声である。
石子はしまったと思った。
石子刑事は渡辺刑事の声が玄関でしたので、しまったと思っていると、やがて女中が出て来て支倉に低声《こゞえ》で何か囁いた。
「君の友人とか云う人が訪ねて来たそうじゃが」
支倉は苦り切って云った。
「あゝ、渡辺って云うのでしょう」
石子は白ばくれて云った。
「一緒に近所まで来て別れたのですが、何か用事が出来たのかしら」
「別に用はありませんがと仰有《おっしゃ》ってゞした」
女中は云った。
「そうですか、それじゃ未だ少し手間取れるから、先へ行って呉れと云って呉れませんか」
「はい、承知いたしました」
女中が退って行くと、石子は支倉の方に向き直って、
「どうも失礼いたしました。こちらに伺っている事を知っていたものですから、鳥渡寄って見たものと見えます」
彼は鳥渡言葉を切って、
「で、いかゞでしょう。お出《い》で願われませんでしょうか」
支倉はじっと眼を瞑《つぶ》って考えていたが、警察の手配りが届いているのを観念したらしく、
「宜しい。何の用かは知らぬが、兎に角一緒に行きましょう」
「どうも有難うございます」
第二の難関を突破した石子刑事は再びホッとして礼を云ったが、未だ油断はなかった。
「直ぐ願えましょうか」
「えゝ、直ぐ行きましょう」
支倉は割に気軽く答えた。
「鳥渡着物を着替えますから待っていて下さい」
支倉が居間の方へ引下ると、石子刑事は直ぐに起《たち》上って、廊下に出て柱の蔭に隠れるようにしながら、じっと居間の様子を覗った。支倉の着物を着替えている姿が、チラ/\と見え隠れする。彼の筋張った手や、着物の端や、忙しそうに畳の上を這廻る帯の運動で手にとるように分った。
余りじっと見詰めていた事が彼の人格を無視し過ぎるとも思われるし、さっきからの気の疲れもあるし、石子刑事はふと庭に眼をやった。縁の直ぐ前にある梅の枝が処女の乳首のようなふわりと脹らんだ蕾《つぼみ》をつけているのが眼に映った。やがて春だなあ、そう思って再び首を捻じ向けて居間の方を見ると、もう着物の端が見えない。気の故《せい》だか人気《ひとけ》がないように思われる。石子刑事ははっと顔色を変えて居間に飛込んだ。
不吉な予感のあった通り、そこには支倉の姿はなかった。箪笥の前に小柄な女が佇《たゝず》んでいた。年の頃は二十七、八で、男勝りを思わせるような顔は蒼醒めて、眼は訴えるように潤んでいた。
「奥さん」
一目で支倉の細君と悟った石子は大声で叫んだ。
「御主人はどこへ行きましたか!」
「只今表の方へ出ました」
細君は静かに答えた。
石子刑事は安心した。表へ出れば、表門からであろうが、勝手口からであろうが、待ち構えている渡辺刑事に直ぐ見つかって終《しま》う。そう周章《あわ》てるに及ばない。彼はそう思って落着くと、支倉の後を追う前に彼の鋭い眼で部屋の中をグルリと一廻り睨め廻した。彼の眼にふと開いた襖から鳥渡見えている二階へ通じる階段が映じた。その上にはさっき支倉が褞袍《どてら》の上にしめていた黒っぽい帯が蛇のようにのたくっていた。瞬間に彼の第六感はしまったと頭の中で叫んだ。
彼は脱兎の如く部屋を飛出すと忽ち階段を駆け上った。八畳と六畳二間続きの南に向いた縁の硝子戸が一枚開いていた。その傍に駆け寄って見ると、下はふか/\した軟かそうな地肌だった。その地肌の上に歴々《あり/\》と大きな足袋裸足の跡と思われる型が、石子刑事を嘲けるように二つ並んでついていた。
嘲笑
刑事は蒼くなって二階から駆け下りると表へ飛出した。只ならぬ彼の様子を見た渡辺刑事は驚いて声をかけた。
「君、どうしたっ!」
「に、逃がしたっ! 君はそっちへ廻って呉れ給え」
二人は右と左に分れて、支倉の家を包囲するように塀について廻った。それから出鱈目《でたらめ》にそこいら中を探し廻ったが、遂に徒労だった。二人は茫然《ぼんやり》して顔を見合した。
「僕が悪かった」
さっきの得意はどこへやら、石子は悄然として云った。
「少しも油断はない積りだったが、やっぱりまだ駄目な所があるんだなあ」
石子は手短に逃がした次第を語った。
「ふん」
聞終った渡辺は感心した。
「中々凄い奴だな」
だが、いつまでも感心している訳にはいかない。
「渡辺君、僕はこのまゝ帰って、司法主任におめ/\と取逃がしましたとは報告出来ないよ」
石子は悄気切って云った。
「僕だってそうだよ」
渡辺は半ばは自分に云うように、半ばは石子を慰めるように云った。
「君と二人がゝりで逃がしましたとは云えないよ。第一僕の見はり方が悪かったんだから」
二人は相談をした。そうして大島司法主任には彼が不在だったと報告して、二人で共力して遅くとも三日の中に彼を引き捕えてやろうと誓った。
いかに大胆な彼でも白昼堂々と帰宅する事はあるまい。必ず深夜人知れず帰宅するに違いない。咄嗟《とっさ》の際だったから、彼に充分の用意がないから、今晩にも帰って来るかも知れぬ。石子、渡辺の両刑事は其夜人の寝静まった頃から支倉の家を見張る事にした。
寒風に晒《さら》されながら冬の夜更けを、人知れず暗闇に佇んでいるのは決して楽な仕事ではなかった。両刑事は息も凍るような寒さに、互に励まし合いながら、徹宵一睡もしないで、猫の子一匹も見逃すまいと、支倉の家を睨んでいた。
其夜は何事もなく明けた。次の夜も其次の夜も三晩と云うものは更に家を出入するものがなかった。
「ねえ、石子君、つく/″\嫌になるね」
三晩目に渡辺刑事が述懐した。
「何、三晩やそこいらの徹夜位はなんでもないさ。僕は苦労を云うのじゃない。三晩も寝ないで他人の家を恰《まる》で犬のように覗っていると云う事が果して意義のある事だろうか。探偵なんて商売はつく/″\嫌になって終《しま》う」
「馬鹿な事を云っちゃいけないぜ」
凍えた両手を一生懸命に擦り合せながら石子刑事が答えた。
「僕達は何も私利私慾の為にやっているのではないぜ。公益の為にやっているのだ。僕達は社会の安寧を保つ為に貴い犠牲を払っているのだぜ」
「貴い犠牲か? だが世間の奴等はそうは云わないからな。恰《まる》で僕達が愉快で人の裏面を発《あば》くように思っているからな」
「馬鹿な、僕達のような仕事をするものがなかったらどうするのだ、そんな事を云う奴には云わして置くより仕方がないさ」
石子刑事は吐き出すように云ったが、その実、彼も三晩の徹夜の効果のないのには、すっかり気を滅入らしていた。
四日目の朝、石子刑事は署内自分宛書留速達の分厚い封筒を受取った。それは思いがけなく逃走中の支倉喜平から来たもので、巻紙に肉太の達筆で長々と認《したゝ》めてあった。何となく圧迫されるような気持で封を切った石子刑事は、忽ち両手をブル/\顫《ふる》わせて、血の気を失った唇をきっと噛みしめた。
石子刑事に宛てた支倉の手紙には次のような事が書かれていた。
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拝啓
過日|態※[#二の字点、1−2−22]《わざ/\》御来訪下され候節は失礼仕候。一旦御同行申すべきよう申し候え共、つら/\考うるに警察署の取調べと申すものは意外に長引くものにて、小生目下|鳥渡《ちょっと》手放し難き用件を控えおり、長く署内に留め置かれ候ようにては迷惑此上なし。依って右用件済み次第当方より出頭仕るべく候間左様御承知下され度候。尚一筆書き加え候が、多分は聖書の件と存じ候が、あれは尾島書記より貰い受けしものにして、決して盗み出せしものに非ず、右御誤解なきよう願上候。呉々も小生居所についての御詮議は御無用に願度、卿等の如き弱輩の徒には到底尋ね出ださる余に非ず、必ず当方より名乗って出《い》ずべきにより、無用の骨折はお止めあるよう忠告仕候。
[#ここで字下げ終わり]
石子刑事は歯噛みをして口惜しがった。
手紙を見せられた渡辺刑事も激怒した。
「馬鹿にしていやがる」
稍《やゝ》あって石子は腹立たしそうに云った。
「聖書の事などは云いやしないのだろう」
渡辺刑事が聞いた。
「無論云いやしない」
石子は余憤の未だ静まらない形で、荒々しく答えた。
「ではきゃつ[#「きゃつ」に傍点]脛《すね》に持つ疵で早くも悟ったのだね。それにしても聞きもしないのにこんな事を書くのは白状したようなものだ」
渡辺は鳥渡息をついで、
「尾島書記と云うのに会ったかい」
「会ったさ、然し貰ったと云うのは嘘だよ。会社の方で公の問題にしたくないと云う考えがあるので、それにつけ込んでこんな事を云っているのだ」
石子は一気にそう云ったが、やがて調子を変えて、
「そんな問題は後廻しだ。一刻も早くきゃつを捕えなければならん」
「無論だとも」
渡辺は言下に答えた。
その日午後に又もや支倉から石子刑事に宛て一通の書留速達が舞い込んで来た。それには家の廻りなどをいくら警戒しても無駄な事だと云った意味が、前の手紙よりも一層愚弄的に書いてあった。
「畜生!」
石子は心の中で叫んだ。
「おのれ、今に見ろ、然し俺は冷静
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