の蓋なき古井戸へ貞を突き落としました。
 こう云う風に予審判事に対しても彼はスラ/\と犯罪事実を自白したのだった。
 古我予審判事は直に拘留状を発した。
 判事は徐《おもむろ》に放火殺人以下八つの罪名に於て被告支倉喜平を東京監獄に拘留すと書いて最後に署名をした。時に午後九時を過ぎる事二十分で、支倉が東京監獄に這入ったのが同日午後十時だった。

 東京地方裁判所予審判事古我清氏は自宅の書斎で牛込神楽坂署から送付して来た支倉喜平に関する調書を片ッ端から熱心に調ていた。
 調書は調べれば調べる程、一種の怪味に充ち満ちていた。喜平が聖書の窃盗をなした事や、貞と云う年若き女を犯して之に淋疾を感染さした事実等は疑う余地がないが、他の重大なる犯罪放火及殺人に至っては、彼は立派に自白を遂げているけれども、尚一抹の暗雲が低迷している所がある。もし彼の自白する所が尽く真実であるとすると、実に彼は古今稀に見る兇賊である。然しながら未だ軽々に之を断ずる事は出来ない。余程慎重なる審理を要する。之が古我氏の第一の意見であった。喜平は前科四犯を重ねている。
 法官は被告人を取扱うに当って、前科の有無と云う事には出来るだけ拘泥しない事が必要であるし、殊に支倉は今はキリスト教に帰依し、一部からは牧師と見られている程、宗教に身を投じているのであるから、出来るだけ彼の人格を認めねばならぬ。然し飜えって考えるに、彼は明治三十六年から明治四十年までは殆ど連続的に四回の窃盗罪を犯し、最後に二年の刑を受けて明治四十二年に出獄、明治四十四年にキリスト教の信者となったのであるが、彼の起訴された窃盗罪は大正五、六年に連続して行い、殺人は大正二年、第一回の放火は明治四十五年で、殆ど連続して犯意を以ているもので、毫も悔悛した所を認める事が出来ない。今回起訴せられた八つの罪の如きも、殆ど確実に之を犯していると思われるのである。
 古我判事は沈思熟考の末、本事件に当るべきプランを樹《たて》て終った。彼はホッと溜息をついて、傍の冷え切った番茶をグッと啜った。
 翌日出所した古我判事は直に本事件の参考人として、被告の妻静子、証人として小林定次郎、神戸牧師の二人を喚問する事を書記に命じた。
 そうして一方では直に芝白金の支倉喜平の宅を捜査すべく手続をしたのだった。
 大正六年三月二十六日午後予審判事、裁判所書記の一行を乗せた自動車は突如として支倉の家の前に止まった。
 静子は子供を連れて外出していて不在だった。家には静子の母である老婆と、喜平の甥である少年とが留守をしていたが、判事は、物々しい有様にキョト/\としている二人を立会人として、家宅内全部を捜索して、聖書明細書、質物台帳、各一通、離婚届、建物譲渡に関する書類各一通、外に書状数通を押収した。
 捜索時間は約四十分だった。
 それからその足で直ぐ古我判事の一行は貞子殺害の場所とせられている古井戸の実地検証を行って調書と共に詳細な図面を拵えた。調書中には次のような事が書かれていた。
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一、同所より更に小林貞子を投入殺害したりとの古井戸の箇所に至るには前記支倉方居宅前の五反田桐ヶ谷に通ずる道路を南行して中丸橋を渡り進む事約三丁にして、東西に通ずる道路の交叉点に至る。之より左折して東方に入る事約三十間にして道路の左側に接し古井戸の存したる地点に達す。
一、立会人の申立つる所に依れば該井戸附近は旧時松、杉等の密林及び竹藪等の間少し許りの畑地を有するのみにして、該井水は番人小屋の飲用に供せられしも、其後次第に伐採開墾せられ大正二年頃は所謂池田の新開地と称し寂寥たる原野と化し、該井戸側は腐朽し周囲は棒杭を立て針金を引廻し僅に崩壊を防ぎ、大正三年十月|浚渫《しゅんせつ》の際まで其のまゝに放置せられ、発掘せる木根所々に散在し、井戸の傍に一条の小径ありて雑草中を南北に縦貫し居たりと云う。
[#ここで字下げ終わり]
 この調書は中々の名文だ。一読草茫々たる原野中の古井戸を髣髴とせしめて、凄愴の気人に迫るものがある。

 三月二十九日支倉の妻静子は予審廷に召喚せられて、参考人として古我判事に訊問せられた。
 神楽坂署で夫の恐ろしい罪の自白を聞いて、既に覚悟はしていたけれども、こうして改めて予審廷に呼び出されると、彼女は新な涙に誘われて、天帝の無慙な試練に歯を喰いしばってこらえているのだった。
 問 其方は支倉喜平の妻か。
 答 そうです。
 問 いつ夫婦になったか。
 答 明治四十三年十一月夫婦になりました。其翌年頃入籍いたしました。
 あゝ、此の答えによると彼女は支倉が四度目の刑を終って出獄して間もなく結婚しているのである。
 当時彼女は十九歳だったのである。
 問 どこで夫婦になったか。
 答 秋田県小坂鉱山の私の実家でした。支倉が当時横浜市の聖書会社に勤め、聖書販売|旁※[#二の字点、1−2−22]《かた/″\》伝道の為め小坂鉱山に参り、教会にいました信者の世話で親が結婚の約束をしたのです。私は十九歳でした。
 問 喜平が窃盗犯により入獄した事を聞いたか。
 答 前科ある事は此度神楽坂警察署で初めて知りました。宗教家は間違いないものだと云う事を聞き夫婦になったのです、前科ある事を私に話ませんでした。
 あゝ、何と哀れなる彼女ではないか。彼女は未だうら若い身を親の極めた夫に嫁して、夫が悪人と云う事は少しも知らずに貞節を尽していたのだった。彼女が神楽坂署で訊問を受けてから、夫の自白に立会うまでの振舞いは、真に夫を思い子を思うの情切で、鬼を欺く係官さえ涙ぐましたと云う。
 問 現住所の古家に住み込み喜平は建増したか。
 答 そうです。買った古家の造作を取換え且つ北側に只今も残っている貸家を建てました。千円許り要《い》ったそうで、古家に続けて一棟も建増したのです。
 問 其建築の費用をどこから出したか。
 答 聖書を売って儲けた金と、高輪で焼けて、保険会社より受取った金で建てたと思います。
 古我判事は進んで前後三回罹災した火事の事情を詳細に訊問して一転して女中貞の事に這入り、徐に質問を進めて行った。
 訊問は貞が行方不明になった事に及び、当日叔父の定次郎が支倉方に、貞の行方を尋ねに来た事に及んだ。
 問 定次郎の来た月日時間は如何《いつ》か。
 答 月日を覚えません。夕方でした。其時の話に今日病院へ行くとて貞子が出て帰らぬとの事でした。私は何時退院してどこに居たか知りませんでした。
 問 其時喜平は在宅したか。
 答 其時は居りませんでした。
 問 当日喜平は何時に家を出て、何時に戻ったか。
 答 朝八時か九時頃家を出て、貞子の叔父さんが去って後戻りました。支倉の戻ったのは夕飯後ですから、七時か八時頃であったと思います。
 問 喜平は当日どこへ行ったとの話であったか。
 答 平常黙って出るので尋ねませんから、どこへ行ったか存じません。
 問 戻った時喜平の様子は変った所はなかったか。
 答 別にありませんでした。
 静子は知れるがまゝに、少しも悪びれず事実を申立てた。
 夫に対して絶対服従していた彼女は夫の犯罪には、少しも干与していなかった。全く表面的な事実だけしか知らないのだった。

 蒼ざめた横顔を見せながら、問われるまゝにスラ/\と返辞する静子の哀れな姿を古我判事はじっと眺めていたが、やがて優しく云った。
「宜しい。今日は之だけにして置きます。では今の問答を読み聞かせます」
 書記の読み上げるのをじっと聞いていた彼女は黙って頭を下げた。彼女は印形を持っていなかったので、調書には署名をした切りで、印を押す事が出来なかった。
「宜しい」
 判事の許しの声に彼女はホッとして室を出て行った。
 古我氏はじっとその後姿を見送っていたが、やがてはっと緊張しながら、待たせてあった証人小林定次郎を呼び入れた。定次郎は日に焼けた真黒な顔に場馴れのしない不安そうな顔でオズオズ這入って来た。
 判事は彼に宣誓をさせた後、型の如く姓名年齢身分職業を問いたゞし、直ちに訊問に這入った。
 定次郎の訊問は頗る平凡で、何等新奇な事はなかった。貞の死体の鑑定の事だけをこゝに掲げて置こう。
 問 貞の体格は如何か。
 答 年の割に丈高く中肉でした。
 問 大正三年十月上大崎の古井戸より女の死体の出た事を承知か。
 答 その当時は知りませんでした。
 問 先頃其死体を埋葬地より掘り出し証人は見たか。
 答 二度見ました。前の日のは間違えたもので、次の日の分を警察で見ました。布片の残りと骨を見せられました。
 問 それは貞子の骨並に着用したる布類と思ったか。
 答 私としては布類の方は全然知らず、骨については貞子が平素笑った時に鬼歯が両方一個宛目立って見えました。見せられた歯に鬼歯が一本ずつ出て居ますから同人の死体と思いました。
 古我判事は息を継ぐ暇もなく翌三十日証人神戸牧師を訊問した。
 神戸牧師は支倉の妻が自己の教会員だった関係から、支倉が神学校に這入る時の保証人となったのが彼との交渉の始めで、小林貞の事件には止むなく仲裁の労を取ったのだったが、それが元で彼の自白に立会う事になり、遂には予審廷に引出されて、不愉快な訊問を受けなければならぬ事となった。本事件解決の重大な鍵の一つはこの人が握っていたと云って好い位だったので、証人として数回法廷に立たねばならなかった。人に情をかけたのが、反って仇となって、詰らぬ目に遭ったと云う訳だ。
 神戸氏は大きな口をきっとへの字に結んで、眉のあたりに不快な節の隆起を見せながら、古我判事の前に腰を下した。
 問 証人は小林貞の父より交渉あった事を支倉に申したか。
 答 そうです。その趣を話し如何なる処置を執るかと支倉に告げました。
 問 支倉は何と答えたか。
 答 謝罪する又病人を治してやると申しました。父と云うのは正直な男で、初めは謝罪と病気治療で済ますと申して居りました。
 問 其後交渉は如何に為ったか。
 答 彼は弟定次郎は労働者だから成るべく事実を知らしたくない。知らすと無理な要求をするかも知れないと申して居りましたが遂に弟に話したと見え、弟一人か又は二人一緒に、私方へまいりました。
 弟定次郎が蛇《じゃ》の道は蛇《へび》で支倉の悪事に感づいた事が、思えばこの事件の起る原因だったのだ。支倉は彼の脅迫を恐れて貞を殺したのだろうか。

 神戸牧師の証言は縷々として続く。
 答 支倉を呼び寄せて小林の申出を話すと、少しの金は出来るけれどもそんな大金は払えぬと申しました。且つ同人は小林の方で是非金を取ると云うならば裁判の問題にするとも云いました。小林定次郎も聞いて呉れねば告訴すると云いました。私は支倉にそんな馬鹿な事をするよりも示談にした方がよいと勧告しました。其結果支倉は百円ならば出すと云い其旨を小林方へ伝えました。
 問 小林定次郎は最初三百円と云い、後に二百円で承諾したる如く述べているが如何《どう》か。
 答 私は前申す如く最初の要求が二百円位であったろうと思います。古い事で慥《しか》と記憶ありません。
 問 証人は貞子に逢った事があるか。
 答 あります。多分定次郎が一度貞子を連れて私方に来ました。痩せた小さい女でした。
 貞子は背が高いとも云い、小柄とも云い、証人が各々まち/\の返答をしているのはどう云うものか、興味のある点だ。
 三月三十一日には証人として小林貞を預かって病院に通わしていた中田かまと云う老婆が喚ばれた。この辺りからボツ/\井戸から上った死体が果して貞子かどうかと云う事が判明して来る。
 問 証人は小林貞子とは如何なる知合であったか。
 答 大正元年中貞子が上京した時より知って居ります。其父は前に私方より学校へ通学し、その後弟定次郎方へ同居しましたが、キリスト教信者なので、互に往復し、貞子上京の事も知っています。
 問 証人は貞子より直接支倉の為め強姦されしや否やを聞かなかったか。
 答 病状として、病み歩行困難なる事を聞きましたけれども、支倉にどうされたかを貞子より直接聞きませんでした。

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