問 幾日間預かったか。
 答 入院するまでの間ですが日数は覚えません。
 問 貞子はいつまで病院へ通ったか。
 答 九月二十六日と思います。朝八時か九時頃病院へ行くと申して私方を出ました。
 問 貞子は当時十六歳であったか。
 答 そうでした。大きさは普通でした。病気に罹った為か少し痩ていました。
 問 貞子のいなくなった日如何なる服装で出かけたか。
 答 着物は判然しませぬが、帯は覚えて居ります。既ち帯の片側は黒の毛繻子にて片々はメリンス中形で、色は紫か濃い鼠か判然しません。帯の巾は男帯より少し広いので五、六寸位と思います。矢絣の単衣の着物であったかも知れません。
 古我判事は中田かまを退廷させると、貞子が通っていた高町病院長高町氏を呼び入れた。判事は服装につき聞きたゞしている。
 問 最後に貞子が証人方へ来た頃どんな服装を致して居ったか。
 答 覚えて居りません。
 問 証人は神楽坂警察署に於て頭蓋骨を見せられたか。
 答 見せられました。顴骨《けんこつ》高くなく骨腫弱なると十五、六の女の頭蓋骨なることを認め、心の内で貞子の頭蓋骨も此位のものであろうと思いました。
 古我判事は中一日を置いて四月二日には疾風迅雷的に古井戸を浚渫《しゅんせつ》した人夫、請負った親方、検視をした医師、静子の母親の四人を喚問して調べ、同日被告支倉の第二回訊問を行っている。
証人調には読者諸君も倦きられたであろうが、今暫く辛抱して裁判所の綿密なる調査に敬意を表し、支倉の奇々怪々な返答振りを待って貰いたい。

 井戸掘人夫島田某は死体発見当時の有様を古我判事にこう答えた。
「上大崎所在の古井戸は山谷親方から頼まれまして六人で浚いましたが中へ這入ったのは私一人でした。井戸の大きさは直径三尺五、六寸で水面までは三丈位で、中へ行く程広くなり底の所は直径二、三間ありました。水の深さは七尺位だったでしょうか。井戸の囲《まわ》りには樹が四、五本ありまして、井戸の所は草が茫々と生えていました。
 私は中へ這入りまして水を汲み上げるのに邪魔な樹の切れ端などを取除き、玄蕃桶で水を汲み初めますと、暫くして桶に当るものがあります。見ると大きた切株ですから引上げようとしますと菰が手に触りました。で、その菰を取除こうとしますとニュッと人間の足が出たのです。私は吃驚しましたが、気を落着けてよく見ますと、紛う方なき死体ですから私は声も上げる事が出来ず忽ち逃げ上りました。それから品川警察署に届けまして警官方の御出張を乞いました。死体取上げには昨年死にました私の父が中へ這入ったのです。
 死体は頭には毛は少しもなく、眼耳鼻なども腐り落ちて、手首足首もありませんでした。身体に帯と襟とが附いて居りましたので女と分りましたが年の所はハッキリ致しません。
 死体についていた帯は巾の狭い黒繻子でした。襟も帯と同じく黒繻子でした。
 只今お示しの布片の黒い方は死体に附いていたものと同じだと思います。メリンスの方は一向存じませんです」
 井戸浚渫を請負った山谷某は古我判事に次のように答えた。
「仰せの通り島田父子でその死体を引上げました。死体は両手を延ばし両足を投げ出し十の字になって殆ど裸でした。只襟の所に襦袢と着物の襟が附いて居りまして、腰の辺に巾七八寸位の帯が巻きついていました。
 帯はメリンスに繻子の腹合せと思われ、襦袢の襟は赤らしく、着物の襟は繻子でした。襟の内にくけてあった布片から見ますと、矢絣の瓦斯地の着物を着ていた事と思います。其時に立会った人々は十八、九乃至二十位の女だと云って居りました。
 お示しの布片は井戸から出た当時はこんなに切れないでもっと繋がって居ました。それにこんなに泥はついていませんでしたけれども、色はこれ位でした。赤い方は襦袢の襟で青い方は帯の裏になっていたと思います。
 支倉さんは当時確に見に来ていました。然し口は利きませんでした」
 井戸から上った死体の検視をした吉川医師が古我判事に答えた所は次の如くである。
「推定年齢を二十乃至二十五としたのは身長及一般の体格から推測したので、骨格の構造と乳線から女子と断定したのです。異例を考えれば十六歳位とも見られない事はありますまいが、私は検案書の如く推定いたしました。死後経過は六ヵ月乃至一年と見ました。自殺か他殺かと云う事はとても判別出来ませんでした。只今お示しの布片の内海老褐色のものは多分当時の物と存じます。其の他の布片については何とも申し上げられません。尚頭蓋骨は何分年数が経って居りますので確《しか》と申上げられませんが、当時のものより心持ち小さい様に思われます」
 以上の証人の言から略※[#二の字点、1−2−22]古井戸より上った死体が行方不明になった小林貞である事が確実になったので、古我判事には漸く朧げながら事件の真相が掴めたように思われた。
 彼は更に四月六日静子の母を参考人として放火事件の取調を行い同日広島県下から召喚した貞の父を調べたが、いずれも今までに判明した事実を裏書きしたに過ぎなかった。
 事件に稍自信を得て来た古我判事は翌四月七日、去月二十日一回の訊問をしたきり打ち棄てゝ置いた支倉の第二回の訊問を行った。
 所が支倉の態度はガラリと変っていた。

 支倉喜平は予審判事の第一回の取調べの三月二十日から第二回の取調べの四月七日まで凡そ二十日間東京監獄に監禁せられている間に何を考えたのであろうか。その二十日間に古我予審判事は或いは家宅捜索をなし、或いは実地検証をなし、十指に余る証人を召喚し、中には遙々《はる/″\》広島県下から呼び寄せたものさえあるが、苦心肝胆を砕いて漸く核心に触れる事が出来たので、今日第二回の訊問をなすべく支倉を予審廷に呼び出したのであるが、支倉は前回の悄然として面さえも挙げ得なかった態度に比し、今日はその特徴のある真黒な顔をすっくと上げて、大きな眼玉をギロリと光らして、平然として判事に対したのだった。
 古我判事はジロリと支倉の意外な態度に注意の眼を向けながら徐ろに口を切った。
 問 被告の所に此離婚証書があったが、それはいつ作ったものか。
 答 知りませぬ。離婚する話があったか否も忘れました。
 問 然らば此の建物譲渡証書は如何。
 答 私は存じませぬ。誰が作ったか知りませぬ。家内に建物を譲る話をしてあったか否か分りませぬ。
 問 定次郎より百円の受取証を取ったか。
 答 取った様にもあり、又取らぬ様にもあります。
 問 神戸より右金を定次郎に授受の際被告は立会わなかったか。
 答 分りませぬ。
 問 授受は大正二年九月二十六日の夜であったか、又は其翌日であったか。
 答 晩であったか、朝であったか分りませぬ。神戸より話を受けたか否やは覚えませぬ。
 問 兎に角二十六日の晩被告は神戸方に行き小林兄弟に会ったか。
 答 警察に於ても皆が会ったと云うから会ったごとく申述べましたが、如何であったかわかりませぬ。
 問 何故分らぬ。
 答 どう云う訳か分りませぬ。
 支倉喜平は徹頭徹尾否認を続けた。然しながら最後の答えの如きは、神戸牧師小林兄弟が口を揃えて同日神戸方で支倉に会った事を証言しているのであるから、支倉の否認は理由なきものと云わねばならぬ。支倉は二十日間未決監に前途の暗澹たる運命を嘆いているうちに、ふと一切を否定しようと云う事に考えついたのではあるまいか。彼にしてこゝでもう少し理性を働かして、否認すべきは否認し、肯定すべきものは肯定する態度に出たら、何とか判官の心証を動かして、事件を容易に片づける事が出来たかも知れぬ。彼の不敵の魂は一旦こうと決心したら容易に動かぬのである。彼の善心と云おうか仏性と云おうか、兎に角彼の心境のうちにある良心は神楽坂署の署長室の自白に一旦眼覚めかけたのであるが、昼尚暗い独房のうちに二十日間押し込められているうちに、再び彼の悪心が跳梁を初め、遂に完全に支倉の肉体を征服して終って、こゝに彼は再び昔日の支倉喜平に帰ったのであるまいか。何にしても徹頭徹尾否認の態度に出たのは不可思議千万である。
 問 被告は小林定次郎に貞を意思に反して姦したる旨の詫状を入れてはないか。
 答 どうであったか分りませぬ。
 問 無理に犯したことは相違ないか。
 答 どうであったか、宜しき様願います。
 問 被告は貞を赤坂の順天堂病院に診せる考えを抱いたのか。
 答 左様な事は警察の人が云わせた事で私は分りませぬ。
 問 然らば前回被告が述べたごとく貞を井戸に入れた点はどうじゃ。
 古我判事は鋭き一問を発した。

 古我判事から貞を井戸に投じたと云う自白はどうだと、鋭く突っ込まれた支倉は恐れる色もなく答えた。
 答 入れませぬ。警察に於て徹夜せしめ、入れたろうと云われたのを、其通りと申立をなし、又当予審に来てもその通り申すよう警察で云われた為井戸に入れたと申しましたが、実際は入れません。
 問 然らば前回被告の述べた其余の事実は如何。
 答 皆嘘です。
 高輪の私の宅に私が放火した事もなく土方に放《つ》けさせた事もありませぬ。何処から火が出たかも存じませぬ。私は屡※[#二の字点、1−2−22]《しば/\》火事に遭いましたけれども嘗《かつ》て放火はいたしませぬ。
 問 被告は今回逃走中|密《ひそか》に妻に会い、写真を破棄せしめたか。
 答 私は破棄せしめませぬ。浅田が破棄した方が宜しいと云ったのです。
 第二回の訊問は否認を以て始まり、否認を持って終った。この終始一貫した犯罪事実の否認は古我判事にどう響いたであろうか。
 古我氏は既に今までの取調べに於て、朧ながらにも或る結論を脳中に画いていた。けれども裁判官が特定の先入観に捕われる事は危険であるので、勉めて慎重の態度を取っていたのであるから、今日計らずも支倉の徹底的犯罪事実の否認にあってもさして狼狽はしなかった。そうして彼の否認中に多くの矛盾のある事を見逃しはしなかった。
 然しこゝに於て、古我氏は以前に数倍した慎重な態度を取らねばならなかった。支倉の第三回の訊問の五月二十三日まで凡そ四、五十日間に、彼は既に一度召喚した神戸牧師、小林定次郎を初めとして新に写真師浅田其他合計三十五名の証人を喚問した。その上に静子の母、中田かまを参考人として一回都合三十六回に渡って訊問を行なった。之らの調書を一々挙げるのは余りに煩わしいから省くけれども、概して支倉に不利なるものが多かった。
 法治国に於ては法律の適用が頗る重大な結果を来すので、殊に刑法に於ては個人の利害に関する事多く、その為法官も出来るだけ慎重審議する。その結果罪の決定を見るまでには多大の時日を要する。断罪の遅延する事は屡※[#二の字点、1−2−22]問題となり、既にシェークスピアの戯曲中のハムレット皇子が厭世観に捕われて、自殺せんかと思いつめた時に、厭世観を誘う一つの原因のうちに法の遅滞と云う事を数えている。
 然し今こゝに古我判事の周到なる訊問振りに直面すると、法の遅延などと云う事に不平は洩らせなくなる。もとより古我氏のみならず、すべての判官はいずれも古我氏に優り劣りのない取調べをした上でなければ断罪に至らないに違いないのだ。
 余談は置いて、五月二十三日喜平第三回の訊問に取りかゝろう。
 この時は支倉は第二回の訊問の時程白々しい態度は執っていなかった。之を以て考えると、第二回の時は彼は自白後の内的反動で興奮していたのかも知れない。訊問は聖書の窃盗より徐※[#二の字点、1−2−22]に放火事件に及んで最後に殺人事件になっている。尤も興味のある殺人の所を例によって少し抜書して見よう。
 問 被告は神戸牧師に貞を無理に犯したと自白したか。
 答 犯したと云ったけれども無理とは云いません。
 問 九月二十六日貞に会った事は相違ないか。
 答 其日は丸切り会いません。
 清正公《せいしようこう》坂で待受けた事はありません。清正公坂より赤坂に電車で行ったと警察で述べたが、其頃同所に電車はない筈です。ない電車には乗れません。
 古我判事は支倉のこの返答に思わずはっと顔色を変え
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