である。
庄司署長在らざりせば、支倉の犯罪は遂に世に出なかったかと思われる。
この意味に於て庄司署長は司法警察の殊勲者である。署長の得意思いやるべしである。で、彼は勢いに駆られて彼支倉を極悪人として告発した。もとより彼は功名を強調する積りは無論なかったであろう。
実際署長の眼には、彼支倉は極悪人として映じたであろう。又、支倉が悪人であった事には異議を称える人は恐らくないであろう。
庄司署長が支倉の自白の直後に当って今少し冷静に考えて、適当な処置を取ったならば、支倉は当時にあっては署長の温情に対して感謝の涙を流し、誰の面前に於てもその事を繰返し述べていたのであるから、決して他日|漫《みだり》に反噬《はんぜい》するような事もなく、庄司署長は有終の美をなしたのであろうが、こゝに少しく用意を欠いた為に、後日非常な面倒を惹起《じゃっき》し、極一部からではあるが、署長が立身の踏台として、支倉を犠牲としたのであるなどと云われる事があったのは惜むべき事であった。
庄司署長が一身の栄達を計る為に支倉を犠牲者としたと云う非難について一言したい。
凡そ警察署長たるものは犯罪人検挙を以て重要な職務の一つとするから、どの署長でも犯罪人を踏台にして出世したと云わば云えるので、こんな事で非難されては警察署長のなり手がないであろう。要は取調べ方が辛辣だとか、無辜を強いたとか、卑怯な方法を用いたとか云う点があれば攻撃せられるのであろうが、支倉事件にはそんな点があるであろうか。
事件が事件だけに、犯人が犯人だけに、多少訊問方法に遺憾があったかも知れない。然し、犯人自白の場面の公明正大なるを見ると、そんな疑問は飛んで終う。誰しも支倉が後に自白を根本的に覆して終うなどとは予想しない。
大分面白くない議論めいた事が続くが、事の序《ついで》にもう少し述べさして貰おう。でないと後に起る複雑な事件に正確な判断が下せないからである。
問題は支倉の自白が真実か虚偽かと云うのにある。尤も読者諸君の既に知られる通り、彼の自白は誠に立派なもので、誰でもあれが虚偽であるとは考えない。後に彼が自白を覆えしたからこそ問題になったのであって、それだからと云って直ぐに神楽坂署で拷問にかけたとか、ありもしない罪を着せたとかいうのは当らないと思う。支倉自身は後にはいろ/\と酷い目に遭わせられた事を云い立てたけれども、当時にあっては何に感じたか涙を流して庄司署長の徳を称えていたのだから、後でそんな事を云い出しても不利な所がある。
庄司署長にした所で、当時は何と云っても三十を少し出た許りで、青雲の志に燃えている時だ。一体日本の教育は子供の時から猛烈な戦闘意識を養う事になっている。立身出世をせよと教える。そうしてその為には少しでも前へ出なければいけないので、時には儕輩《せいはい》を排斥する位の事はしなければならない。前の人が斃れゝばそれが幸いで、その死屍を踏み越えて前進する。宇治川の先陣争いで、佐々木が梶原を誑《だま》した位の事は何でもない事になっている。
今はそうでもないが、今から十年前となると、何と云っても官学の元締めの帝大の卒業生などは鼻息の荒いもので、何とかして出世しようと思う。一つには学生と云うものが誠に純真で、世相の複雑な事が分らないから、先輩などのやり方がまだるこしくって、彼等が社会に出てまごついているのが歯痒ゆい。俺ならあんな事をするものか。乃公《だいこう》一度び出《いず》れば手に唾して栄職につく事が出来ると考える。そして何分にも長い学生生活に倦きているから、社会に出て働くと云う事に無限の興味と期待を持っている。だから卒業したての学生の意気組みと職業的良心と云うものは素晴らしいものだ。之は誰でも学窓を出たての就職当時の事を回想すればきっと思い当る所があると思う。この意気組みと職業的良心が誠に貴い所で、之を善用し活用すれば大したものになるのだが、悲しい事には官庁でも会社でも組織に欠陥がある為に、素直にそれを受け入れる事が出来ない。その為にフレッシュマンの意気は次第に沮喪し、元気は消耗し萎縮して終《しま》う。遂には次期の学生から意気地のない先輩と見られるようになる。
そこで問題の庄司署長であるが、彼は当時学窓を出て未だ幾何《いくら》も経っていない。彼には意気組みの素晴らしいものがあると同時に、十分な職業的良心を持っていた事と私は信じる事が出来る。いや、この庄司と云う人は例外的な人で、恐らくいくつになっても漲《みなぎ》るような意気と、良心とを捨てる人ではないと思う。
支倉事件の検挙の方針を誤っていたか、訊問の方法が失敗だったか、そんな問題は第二として、又誠心誠意を以てやった事ならどんな事でも好いと云う暴論は吐かないが、少くとも、庄司署長がこの問題に対して良心を枉《ま》げていたとは思われないのである。
が、一方、支倉喜平に対しても彼が獄中で縷々として冤罪を訴えた心事は実に憐むべきで、涙と戦慄なしには彼の獄中記を読む事は出来ないであろう。彼に対しても又数多の同情者の現われたのは蓋し当然である。
面白くない事を縷々として述べたが、之だけの事情をすっかり呑み込んで置いて貰わないと、これから展開する支倉対庄司署長の闘争。それに、も一人東都弁護士会にその人ありと云われた能勢氏と云う豪傑が現われて、三つ巴になって相争うと云う本篇の最も興味のある所が理解出来ないのだ。
事件はどう云う風に転回するだろうか。
断罪
神楽坂署で潔く自白をすませた支倉は、欣々然として検事局に送られた。欣々然と云う形容は少し誇張に過ぎる嫌いがあるけれども、少くとも彼は全く解放せられた気持だった。その気持は神楽坂署で数日間続行訊問をやられた苦痛から逃れる事が出来た為か、又は積悪を自白して良心の苛責から免れて、安住な心の落着き場を見出した為か、それは支倉自身に尋ねて見なければ分らぬ事であるが、彼は恰度悪戯をした小児《こども》がひどく叱られてしょげた後の打って変ったはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]のように、恐ろしい罪名を附けられて検事局へ送られながら、少しも悪びれた様子がなく、反て幾分亢奮をしていたらしく思われる。
係りの検事は夙《つと》に令名のある小塚《おづか》氏だった。小塚検事は多年刑事裁判に従事した人とは思えない温顔に、流石に対手の心の底まで見抜くような透き通った眼で支倉を見据えながら、徐々に訊問をした。
支倉はスラ/\と彼の罪悪を自白した。
彼は一月足らず警察を嘲弄しながら逃げ廻った後神楽坂署に拘禁されて、彼の言葉を借りて云うと、七日七晩責め抜かれても、容易に口を開かなかったのが、漸く女を上海《シャンハイ》に売飛ばしたと云い立てたのが三月十八日で、それから畳かけられてとうとう残らず犯罪事実を自白したのが十九日、それで小塚検事の取調べが二十日で、即日起訴されているのであるから、彼がいかに恐れ入って、悔悟の涙に咽びながら事実を申立てたかと云う事が分る。
彼は小塚検事にこう云っている。
「私は断じて偽りは申しません。又他にも重大な犯罪を犯して居りますから、決して一つや二つは隠し立ては致しません。尤も私は神楽坂署に拘留せられて居る間、偽りも申した事はありますが、その当時は自分の犯罪を自白せずに自殺しようと思い、石を呑んだり硝子を呑んだり、銅貨を呑んだり、又は古釘で頭蓋を突き破って死のうとしたり試みましたが、自殺の目的を達する事を得ず、煩悶している間に今日の場合は寧ろ潔く事実を陳《の》べ、妻子が無関係であるのに再三再四裁判所へ呼出されて迷惑する事のないようにした方が宜しいと決心がつきましたから、昨十九日署長にも願って妻子の事に就いて後事を託したいと存じ、中野の宣教師ウイリヤムソンを呼んで頂き面会して後事を託し、尚神戸牧師及妻にも面会を許して頂き、心の残りのないようにして此処へ参りましたのですから、決してもう偽りは申しませぬ」
彼はそう前提して、聖書の窃盗は元より前後三回の放火についても詳細自白し、尚貞を殺した事についても次の如く陳述した。
「――時刻は夕方であったかと思いますが、夫れが大正二年九月二十六日の事であったかどうか記憶がありませぬ。貞がいなくなったのが同日であったとすれば其の日であったか、何時だったかも思い出せませぬ。然し私は貞の居なくたったと云う日の午後九時頃、実は上大崎所在の空地内なる古井戸へ貞を突落として殺したのであります」
小塚検事は静かに支倉を観察した。そうして傍にあった神楽坂署から被告人と共に送って来た戸籍調書と前科調書とに眼を落とした。直ぐその傍には証拠物件が堆高く重ねてあった。小塚氏はじっと考えを凝した。
窓外《そと》では恰度この時春光を浴びながら、透き通るようなうすものゝショールを長々と飜えして、令嬢風の女連が、厳めしい煉瓦造りの建物を黙殺し乍ら歩いていた。
やがて小塚検事は筆を取って予審請求書に署名をした。そうして、
「司法警察官意見書記載の犯罪事実全部を起訴す」
と書き加えた。
支倉喜平《はせくらきへい》は小塚検事に依って起訴されると、即日予審判事|古我清《こがきよし》氏によって第一回の訊問を受けた。
型の如く住所氏名職業等を問質した後、判事は厳然として前科を述べよと云った。
支倉の前科については正しい調書があるからこゝで鳥渡述べて置こう。
彼はすべてゞ前科四犯を重ねているのだった。
初犯は明治三十六年で、山形地方裁判所鶴岡支部で窃盗罪により重禁錮三ヵ月に処せられている。当時彼は二十二歳である。二犯は翌三十七年で、同じく窃盗で山形地方裁判所にて重禁錮三月半を科せられ、三犯は三十九年奈良地方裁判所で、相変らず窃盗罪で重禁錮六ヵ月、四犯は四十年矢張窃盗で京都地方裁判所で重禁錮二年を申渡されているが、何故か京都の裁判所では之を一犯としている。之で見ると殆ど出獄するや否や次の罪を犯しているのだった。
次に聖書の窃盗につき予審判事が訊問すると、彼は聖書を私《ひそか》に会社から盗出した事実は肯定したが、書記と黙契があったので必ずしも窃盗ではないと申立てた。次に放火の審理に移ったが、彼は尽く事実を肯定した。
問 大正三年十月四日午前四時頃其空家に火を放《つ》けたか。
答 私は放けません。私が名前の分らぬ土工に頼んで放けさせました。其附近の開懇土地に入り込んで居た山谷《さんや》部屋の土工だった三十位の男に頼んだので、放ける三、四日前に頼みました。
問 放ける方法を教えたか。
答 教えません。空家に火をつけて呉れないか。火事になって俺の家が焼ければ保険金が取れて都合が好いのだと話しました。其の土工の放けるのは見ません。
問 火事になった時に分ったか。
答 私は家内と二階に寝て火の燃え上るのを知らずに居りましたが、隣の莫大小《メリヤス》屋の職人が門か垣根を打破って、私等を起して救い出して呉れたので、朝の四時か五時頃でした。
問 如何なる方法で火を放けたか。
答 知りません。私の処に揮発油はありましたが、自分が放けたのではなく、揮発油を使ったか否か知りません。
問 幾何《いくら》燃えたか。
答 私所有の一軒は全部燃えました。
問 保険金を受取ったか。
答 千八百円許り受取りました。
放火の件が終ると訊問は一転して貞殺害の事に及んだ。劈頭《へきとう》彼は強姦の事実を否定して、犯した事は犯したが暴力は用いないと云った。
問 被告は人を頼んで示談をしたか。
答 神戸《かんべ》牧師を頼んで何も云わぬと云う事で百円遣り示談にいたしました。神戸の手へ金を渡した月日を覚えません。
問 然るに被告は貞子を殺す決心をしたか。
答 咄嗟の場合に殺す決心をしました。金百円を渡したものの未だ淋疾に罹って居りましたから病院に入院させる積りでしたが、能く考えると自然自分の不始末が分ると思い、病院へ行かず新宿へ連れそれから用達を致し、新宿より山の手線の電車に乗り、目黒駅に下車し、自宅へ帰る途中、私宅より三町程離れた野原
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