ン両牧師から、懺悔の為に既に罪は救われたから、清き信仰の生活に這入って潔く法の裁きを受けるように諭《さと》されて、支倉はじっと頭を下げたまゝ、両眼からハラ/\と涙を流して、声を忍んで泣いていた。
 静子は涙に濡れた蒼ざめた顔をつと上げた。
 ともすれば籠み上げて来る鳴咽を噛みしめながら、腸《はらわた》のちぎれるような声を振り絞って夫に向って、訴えるように、励ますように、掻口説《かきくど》くのだった。
「あなた。今のお二人の御教えをお聞きになりましたか。あの通りでございます。私は何にも申上げる事はございませぬ。どうぞ今お二人が仰《おおせ》られたお心持で行って下さい。後の事はどうぞ決して気に懸けて下さいますな。私は小児を大切に育てます。又貞の後世も懇《ねんご》ろに弔ってやりますから、後の事は何も心配しないで下さい」
 支倉は漸く顔を上げた。彼はハラ/\とはふり落ちる涙に、しとゞに両頬を濡らしながら、悔恨と慚愧と感謝との交錯した異様にひん曲った表情をして、激しく身体を慄わせて、悲痛な声を上げた。
「皆様に御迷惑をかけて相すみませぬ。別しても署長さんの御好意の程は生涯忘れません。申上げようもない大罪を犯しました。何とも申訳のない次第でございます」
 一座はしんと静まり返った。
 麗かな日は相変らず硝子窓に映じている。小鳥の囀る声はチヨ/\と長閑である。然し、この狭い一室に閉じ籠った人達は、恰《まる》で切離された別世界の人のように、時間を超越し、空間を超越し、醜い肉体を離れて、霊と霊とが結び合うのを、じっと経験していた。
 支倉は暫く新たな涙に咽んでいたが、やがて思い直したように妻の方に向き直った。
「静子、許して呉れ。わしは云いようのない大悪人だったのだ。お前は嘸《さぞ》かしわしを恨んでいるだろう。わしのようなものを夫に持って後悔しているだろうね」
 細々と絶えんとしては続く悲鳴に似たようなすゝり泣きが、一座の人達を限りない哀愁と異様な恐怖に陥れるように、いつまでも続いた。静子は夫の問いに答えようとしては意志の力では押える事の出来ない、泉のように湧いて来る歔欷《すゝりなき》の声に遮《さえぎ》られて、容易に声が出ないのだった。
 厳めしい警官達も顔を背向《そむ》けずにはいられなかった。
 漸く気を取り静めた彼女は激しくかぶりを振って、夫の問に答えるのだった。
「いゝえ、そんな事はありません。私は少しも後悔などはいたして居りません」
 支倉は妻の健気な一言に激しい衝動を受けて、身体をブル/\慄せた。彼の顔面には感激の情が充ち満ちていた。
「ほんとうにお前はそう思って呉れるのか」
「はい」
 妻の返辞は短かったが、犯すべからざる力が籠っていた。
「よく云って呉れた。お前のその一言はわしにどんなに心強く響く事であろう。わしは実に幸福だ」
 支倉は眼を活々と輝かして妻をじっと見つめていたが、やがてふと思いついたように、
「そうだ。お前も差向き何かと不自由であろう。今わしは八十円程金を持っている。署長さんの手許に保管してある筈だから、わしはそのうち二十円もあれば好い。残りの六十円はお前に遣るから好いようにして呉れ」
「いえ、いえ」
 静子はハンカチを眼に押し当てゝ、激しくかぶりを振りながら、
「その御心配は御無用です。私はお金など要りませぬ。あなたこそ御入用でしょう。どうぞそのまゝお持ち下さいまし」
「いゝや」
 支倉は妻が金などは要らぬと云うのを押し止めながら、
「わしにはもう金などは不要なのだ。そうだ、誠お前がいらないのなら、せめて死んだ貞の為に墓でも建てゝやって呉れ」
「おゝ、ほんにそうでございました。そう云う思し召なら頂戴いたしましょう。私は少しも欲しくありませんが、仰せの通り死んだ貞の墓を建てゝ、後《あと》懇《ねんごろ》に弔ってやりましょう」
「あゝ――っ」
 支倉はとう/\男泣きに泣き崩れた。
「あゝ、わしはもう何にもいらぬ。もう何も思い残す所はない。署長さんの手許にある金は全部お前に遣るから、後々の事を宜しく頼むぞ」
 一座は一種云うべからざる圧迫を感じた。
 戸外では罪ある者も罪なき者も折柄の春光を浴びて、嬉々として自由に足どり軽く歩き廻っている。
 然るにこの狭苦しい冷たい一室では、夫は恐ろしい罪名の許に背後に縛《いましめ》の縄を打たれて、悔悟の涙に咽び、妻は褥《しとね》さえない板敷に膝を揃えて坐ったまゝ、不遇な運命に泣いているのだ。免るべからざる人間生活の裏面にまざ/\と直面して、誰か何の感動を受ける事なしにこの有様を見る事が出来ようか。
 両手を膝の上に置いて、すゝり上げる声を噛みしめながら、肩を激しくふるわせて、悲嘆に暮れているいじらしい静子の姿に、流石の庄司署長も思わず眼をしばたゝくのだった。
 神戸牧師はすっかり厳粛さに打たれて終った。
 彼はこの時の事をこう書いている。
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「当時の署長室の三十分ばかりの光景は、我ら数人の熟視した事であって、其厳粛荘重の有様と、我ら一同の満足とは今に至るまで忘れかぬる美しい記憶である」
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 神戸牧師は、支倉の立派な態度に打たれて、もはや迷惑も何も忘れておもわず彼の方を向いて云った。
「頼みたい事があるなら遠慮なく云い給え。何なりとも屹度《きっと》して上げようから」
 支倉は牧師の方を振り向いた。彼の眼には新たなる感謝の涙が光っていた。
「有難うございます。御恩の程は忘れませぬ。もう何もお頼み申す事はありませぬ。この上は天国に生れ代って、皆様の御恩義に報います」
 支倉の美しい告白の場面は之で終った。
 彼は直ちに検事局に送られる事になった。
 こゝに遺憾に堪えなかったのは、当時の庄司署長が年少気鋭にしてよくかの如き大事件を剔抉《てっけつ》し得たが、惜むらくは未だ経験に乏しかったので、彼の自白に基いて有力たる証拠を蒐集する事をしないで、早くも検事局へ送った事であった。
 然し、それは無理もない事であった。と云うのは支倉の自白が余りに立派であった事で、立会人であった神戸牧師が前掲の言葉のうちで認めている通り、彼の自白が真実である事は少しも疑う余地がなかった。のみならず彼は繰返し繰返し署長に感謝の念を捧げている。それは署長の取調べが情誼を尽し巧に人情の焦点を衝いて、支倉をして深く感銘させた為であって、彼が将来署長に向って反噬《はんぜい》を試みようなどとは夢にも思っていなかった。その為にも早《はや》証拠蒐集等の事をなさず、只彼の自白を基礎として検事局へ送ったのである。
 之が後年数年の長きに亘って事件を混乱に陥らしめ、彼支倉をして生きながらの呪いの魔たらしめ、多数の人を戦慄せしめた大きな素因であった。
 或人は庄司署長を攻撃して、功名に逸《はや》る余り、無辜《むこ》を陥いれたので、支倉は哀れな犠牲者だと云うその是非についてこれより述べよう。

 庄司署長は果して支倉に罪なき罪の自白を強要したのであろうか。
 彼は三年前に犯されてあわやその儘葬り去られようとしていた恐るべき犯罪を発《あば》き出した事について、警察署長として大きな誇りを感じていたに違いない。殊にその犯人が一筋縄で行かない曲者で、手を替え品を替え辛苦数日、昼夜肝胆を砕いて訊問した末、漸く自白せしめる事が出来たのであるから、彼は心中勇躍していた事も十分察せられる。後日支倉断罪に当って証拠に不十分の廉《かど》を生じたとしたら、正に此喜悦の余りの不用意と見るべきで、そこに人間としての彼を見る事が出来るではないか。もし彼が人間味のない冷血漢であって、支倉の自白に多少でも強制の痕がある事を認めたら、恐らく後日自白を飜えしはしないかと云うことに考え及んで、抜きさしならない証拠の蒐集にかゝったであろう。或はその証拠蒐集に当って悪辣な手段を弄したかも知れぬ。
 然し彼はそんなこともしなかったし、又する必要もなかったと云うのは、支倉の自白は心からの自白であって、少しも強いられた痕がなく、それ所か支倉は繰返し署長に対して感謝の念を表示していたのである。
 後年神戸牧師は支倉告白の場面に就いて、述懐してこう書いている。
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「――この始終の消息と此談話とは其後事件の迷惑を唱えられるようになってからは、却って益※[#二の字点、1−2−22]あり/\と想い出さるゝのであって、何故あの時の彼の美しい懺悔が、急転掌を返したように彼の心地は変ったか。さるにても彼《か》の時の懺悔の意味は他にあったのであろうかと想わざるを得ないのであった。
殊に『弔いのために懐中少い中から、これをさいても費用に費ってくれ』と云うた彼の言葉はまさか殺しもしない者のために此犠牲を払うにも当るまいと想われるのであった。が、又考えようによっては、殺しはせぬが憐愍《れんびん》のために其妻女の美しい同情に惹かされてツイ涙と共にあのような事を口走ったものでもあるのか。其とかくの事実は現に世間と共に一種の謎として取り残されては居るが、しかし我等の印象から云えば、古い文字ではあるが、『鳥の将に死なんとするや其声哀し、人の将に死なんとするや其言う処善し』である、の前科者で、且つ今は数罪を数えられて、窃盗、放火、詐欺、強姦、殺人者である彼が、僅に数分の事であっても其の啜り上ぐる声涙の下から、懺悔と感謝の言葉が出たと云う事は、彼も亦人の子であると観るのが何故に誤りであろう。仮令彼は法廷で罪を一々白状しないまでも、其霊性の根から湧いて出た其正直な告白の方が、遙に立派な声明ではないか」
[#ここで字下げ終わり]
 然り、かくの如く支倉の告白の場面は厳粛であって、心からの真実の告白と見るべくして、毫も強制せられた虚偽の自白とは思わるべき節はなかったのである。この意味に於て、時の署長は固く彼の自白を信じたものと思う。
 然しながら後に彼が獄中に於てものした日記や、神戸牧師其他に訴えた手紙を読むと、言々血を吐く如く、鬼気迫って遂に読み下し得ないものがある。もし前後の事情を少しも知らずして、彼自身の訴える如く冤枉者《えんおうしゃ》であると信じるかも知れぬ。
 それらの事は後に詳説するとして、兎に角支倉喜平は、詐欺、窃盗、文書偽造、暴行、傷害、贈賄、放火、殺人、という八つの罪名の許に検事局に送られる事になった。

 支倉喜平は殺人放火以下八つの恐ろしい罪名で検事局に押送される事になった。
 こゝで一寸意外に感じるのは、庄司署長以下刑事連が支倉を自白させるに当って、繰返し罪の軽減を計ってやると云った言葉である。放火殺人暴行と並べると、その一つを犯してさえ重罪は免れないのだから、況んや未だその上に余罪を並べ立てられては、とても罪の軽減などは望まれぬ。署長も始めから支倉に情状酌量の余地があるとは思っていなかったかも知れない。では、署長は彼を欺いたのだろうか。
 然し、こんな問題で署長を責めるのは少し酷であろう。社会の安寧秩序を保つ上に於て、犯罪人を検挙して告発する職務にある以上、頑強な犯人や、反社会思想の顕著な者に対し、温情を以て諄々として説く事は必要であろうし、時にその途なしと考えながらも自白すれば重かるべき罪も軽くなるように説くのも蓋し止むを得ないであろう。但し、支倉を告発するに際して、洗いざらいにすべての罪を挙げて、八つまで罪名を附したのは稍遺憾の点がある。之は一つには支倉が極悪人であると云う心証を与える為でもあり、一つには警察署の方で不問に附しても、検事局或いは予審廷で犯罪事実が現われては何にもならぬのみならず、反って警察側の失策になる事を恐れたのであろうが、いずれにしても警察当局者が功名に逸《はや》ったと云う非難は或程度まで受けねばなるまい。
 支倉を検挙して恐るべき犯罪事実を自白せしめたのは、何と云っても警察当局者の一大成功である。而もそれは当時の署長が庄司利喜太郎氏であったればこそ始めて出来たのであると云っても過言ではあるまい。頑健なる巨躯、鉄の如き神経、不屈|不撓《ふとう》の意志、それらのものが完全に兇悪なる支倉を屈服せしめたの
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