ぶって一百円だけ出します。夫れ以上はなんとも仕方無之候。賢明なる牧師殿よ、何分宜敷御取計らい被成下《なしくださる》よう御願申上候」
[#ここで字下げ終わり]
 右の手紙について神戸牧師は、何故支倉が既に落着した事件につき尚繰返し縷々として自分に手紙を送り、貞の行方について何事も知らぬ事を、殊更に申述べたかと不審には思ったけれども、真逆、当時既に支倉が貞を殺害した後だとは思わなかったのである。
 尚、小林定次郎の訴えにより、当時の高輪署は二刑事を派して、一応事情を調べ、支倉を喚問して取調を行った。が、それは殆ど形式的な調べで、簡単な聴取書を徴されて、支倉は放還せられたのだった。この事は後に支倉が獄中で繰返し繰返し、書き連ねているからこゝに書き添えて置く。
 殺人の外に彼は恐るべき放火の罪を自白した。
 彼は先ず最初横浜で保険金詐取の目的で放火をして、旨々《うま/\》と成功した。それに味をしめて、神田内に転住した時に、再び放火を企てた。
 彼は或る夕、書籍の手入をするように見せかけて、綿屑に揮発油を染み込ませては、本箱の後に抛り込んだ。そして夜半にそれに火を点けたのである。
 自分の家が焼けて終うと、彼は恐るべき奸計を弄した。即ち彼は私《ひそ》かに密告状を認《したゝ》めて、彼の家の隣人谷田義三が保険金詐取の目的で放火を企てたものであると錦町署へ訴えたのである。こうして置けば放火と云う事が判明しても、自己の嫌疑を隣人の方へ向ける事が出来る。何と恐るべき計画ではないか。迷惑したのは谷田である。

 失火と放火との区別は場合によっては、余程経験を積んだ警吏にも容易に分らないそうである。又放火と判明してもその犯人を見出す事も中々困難なものとせられている。警察署が密告状によって先ず谷田に嫌疑を向けたのは止むを得ない事であろう。
 谷田が恰度嫌疑を受け易い位置にいたのか、それとも彼の答弁が場所柄に馴れない為に、益々嫌疑を深めたのか、彼は中々釈放せられなかった。凡そ一週間と云うものは留置せられたのだった。
 一週間目に支倉は殊勝な顔をして警察に出頭し、谷田の為に嘆願をしたのだった。之も亦極めて巧妙な方法で、彼は充分彼の地位を利用したのである。警察では彼を牧師と信じて、全然嫌疑の外に置いている。そこへいかにも同情したような顔つきで、谷田と云う人は決してそう云う事をする人ではないと熱心に弁護したのであるから、流石の警察もすっかり一杯嵌められて終《しま》った。
 第三回の放火は前にも増して、巧妙で且つ大胆不敵に行っている。これは品川署の管内であったが、彼は俗に立ン坊と称する浮浪人を一人傭い入れて、彼の家に火をつけさした。そうして、当夜は平然と妻と衾《しとね》を同じゅうし、枕を並べて熟睡していたのである。品川署もすっかり騙されて、支倉には一片の嫌疑さえかけなかった。
 この時は半焼に止《とゞ》まったのだったが、支倉は品川署の署員に十円を贈って書類を胡麻化し、保険会社の外交員に三百円を与えて全焼と云う事に報告させて、巧に保険金の全額を受取った。重ね重ねの悪辣さには驚くの外はないのである。
 貞に対する暴行、抑※[#二の字点、1−2−22]本事件を巻き起すに至った原因の聖書の窃盗なども、無論すっかり自白したのだった。
 彼の不逞極まる罪状や、執拗な逃走振り、それに強情に拒否を続けた態度が態度だっただけ、一旦自白となると、スラ/\と澱《よど》みなく潔くすべてを打明けた態度には、署長始め掛員一同すっかり敬服して終った。
 彼の長い自白が終ると、庄司署長はホッと重荷を下して、喜びの色に輝きながら云った。
「うむ、よく白状した。これでわしも職務を果す事が出来たし、お前もさぞかし気が晴々した事と思う。この上は神聖な裁判官の審きを受ける許りだ。犯した罪は悔い改めれば消えて終う。然しながら国の定めた掟によって罰は受けなければならない。その覚悟はあるだろうな」
「はい」
 恰《まる》で打って変った人のように、打ち萎れて涙に咽んでいた支倉は漸く顔を挙げて、
「その覚悟はいたして居ります。誠に今まで長らく御手数をかけて相すみませんでした。あなたの之までの御心尽しには只感謝の外はありませぬ。後の所はくれ/″\も宜しくお願いいたします」
「うむ、それは云うまでもない事だ。では今の自白の聴取書を拵えるから栂印を押せよ。それから、之で当署の仕事は済んだのであるから、直ぐに検事局に送るのであるが、希望があるなら妻子に一度会わせてやろうがどうじゃ」
「有難うございます」
 支倉は感激の色を浮べながら署長を仰ぎ見た。
「妻には一度会いたいと思いますが、子供には」
 彼は口籠りながら、
「子供には会いたいと思いません」
「うむ、そうか」
 既に父となっている署長は流石に親子恩愛の情を押し計って、暗然としてうなずきながら、
「それでは早速女房を呼んでやろう」
「それからお言葉に甘える次第でありますが、一度神戸牧師にお会わせ下さいますようお願いいたします。先生の前で心残りなく懺悔がいたしたいと存じます」
「宜しい」
 署長は支倉の殊勝な依頼を快く承知した。
「直ぐ手続をとってやろう、それまでによく休息するが好い」
 其夜は支倉は犯した罪をすっかり自白して終った気安さに、今までは罪を蔽い隠す不安と、責め問われる苦痛と、良心の苛責から、夜もおち/\夢を結ぶ事が出来なかったのを、今は心にかゝるものもなく、グッスリと熟睡したのだった。
 翌日彼が起き出ると、直ちに入浴させられ、署長の好意で待ち構えていた床屋に、蓬々《ほう/\》と延びた髪をすっかり刈らせる事が出来た。彼はサッパリした気持になって、只管《ひたすら》に懺悔の時の来るのを待っていた。
 この時に署長室では警察の召喚状を受取って不審に思いながら出頭した神戸牧師が、署長から支倉の数々の罪状を聞かされて、只あきれて驚いていたのだった。
「彼は昨夜すっかり自白したのです」
 署長は静かに云った。
「それであなたの面前で懺悔がしたいと云っているのですが、会ってやって呉れませんか」
 この時のことを回顧して神戸牧師はこう云っている。

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「――これが庄司氏の説明であった。
我らは其一々を聞いて驚いたのであった。前にも述べたように、当時までまさか支倉が貞子を隠す必要もないと思い込んで居たのであるから、此物語りは全く新聞中の新聞であったのである。しかしそう思えば、成程思い当る事もないではない、曩日《のうじつ》の彼の愚痴の繰り事や、其怨恨の情は歴然浮び出るのだった。其午後の事であった。署長庄司氏はいよ/\彼を検事局へ送るに就いては、一度面会して遣ってくれと頼むのであった。我れらは不承々々乍ら、それを承諾して其時間を待っていた」
[#ここで字下げ終わり]
 読者諸君は神戸牧師の最後の一句、「不承々々ながら云々」と云う言葉に不審を起されるかも知れない。と云うのは牧師と云う者は罪を救うべき者で、ましてや平素師事されている支倉が懺悔がしたいと云うのだから、進んで聞いてやるべきではないか。
 然し、私はこう思う。この不承々々と云う言葉は蓋し不用意のうちに書かれたので、何となく気が進まないと云う軽い気持を現わしたのであろう。
 神戸牧師は既に諸君の知られる通り、その第一印象に於て支倉に好意を持つ事が出来なかった。小林貞の事件には止むを得ず仲裁の労を執ったが、支倉の宗教界に身を置くものに似合しからざる行為や、事件前後の彼の執った態度などには眉をひそめて、もはや支倉には関係したくないと云う気持は充分あったに相違ない。世を救い人を救う大事業に従事する宗教家は決してセンチメンタリズムに終始する事は出来ない、否、むしろ宗教家程卓絶した理性を必要とするのではあるまいか。こんな理窟を並べて読者諸君を退屈させては相すまん次第だが、こう云った事が後の事件にも多少関係があるので鳥渡《ちょっと》申述べて置く。
 兎に角、神戸牧師が支倉の殊勝な自白の事を聞いて、徒に興奮せず、又頭から支倉を憫然と思って感傷的な気持に溺れても終わず、十分理性を働かしながら、渋々と云ったような態度で支倉の懺悔の場面に立会ったのは、彼の性格の一面が覗われると共に、他日支倉の断罪に当って、有力な素因を造ったのだった。
 それにしても神戸牧師は気の毒であった。彼はこの僅々半時間の支倉との面会の為に、後年数年の長きに亙って、云うべからざる不快な眼に遭わなければならなかったのである。支倉に会う事の気が進まなかったのは、蓋し虫が知らしたのであろうか。

 机を前にして署長は悠然と肘付椅子に腰を掛けていた。それと並んだも一つの肘付椅子に神戸牧師が席を占めていた。傍には証人として喚ばれていたウイリヤムソンと云う外国宣教師が、当惑そうに眉をひそめながら普通の椅子に腰をかけていた。それだけでこの狭い署長室はいくらも余地がなかった。
 めっきり春めいて来た午後の陽はポカ/\と窓に当っていた。窓の外には僅かばかりの庭があって、ヒョロ/\と数本の庭木が立っていたが、枝から枝へとガサゴソと小鳥が飛んでいた。時折チヨ/\と鳴く声が室内へ洩れ聞えて来た。
 三人は無言のまゝじっと控えていた。
 やがて扉が開いて、面|窶《やつ》れのした支倉の妻の静子が刑事に附添われながら、蒼白い顔をうな垂れて這入って来た。彼女は室内に這入ると、そのまゝベタンと板の間の上へ坐って頭も得上《えあ》げず、作りつけた人形のようにじっとしていた。後れ毛が白い頸の上で微に戦《おのゝ》いていた。神戸牧師は意味もなくそんなものを見つめていた。
 附添って来た刑事は直ぐ出て行ったが、やがて又そわ/\と這入って来て、中の有様を見渡すと又出て行ったりした。そんな事が何となく物々しく感ぜられて、やがて起ろうとする事件を暗示して、異様な静けさが一座の人々に息苦しい緊張を与えるのだった。
 物狂わしい沈黙が数分間続いた。
 コツ/\と云う忍びやかな足音が聞えて来た。
 やがて扉がスーッと開いて、腰縄を打たれた支倉が悄然と這入って来た。石子と渡辺の二刑事が彼の背後に従っていた。
 彼は命ぜられるまゝに署長と神戸牧師の前にあった椅子に腰を下して、じっと頭を下げていた。
「支倉」
 署長は優しく呼びかけた。
「お前は日頃尊敬している神戸牧師に面会する事が出来て嬉しいであろう。何なりとも心置きなく話すが好い」
 署長の言葉と共に、神戸牧師は少し椅子を乗り出して、きっと支倉を見やった。
 この時の事を神戸牧師は回想してこう書いている。
[#ここから2字下げ]
「小さい署長の部屋の中央に二脚の安楽椅子があった。庄司氏は其一つを、予は他の一つを占領していた。予の隣座に偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》証人として来ていたウイリヤムソンと云う宣教師が坐っていた。机を隔てゝ支倉の細君静子も居た。やがて一人の刑事が室を出たり這入ったりした。其数分後に喜平は背後に打縄をつけられたまゝで、室内に這入って来た。無論二人の刑事は彼の背後に付添うていた。喜平が一脚の椅子に腰を下ろすと、庄司氏は我らを引合せて其多年の知友に面会さす好意を示した。予は第一に彼に云い聞かせたのである」
[#ここで字下げ終わり]
 神戸牧師はきっと支倉の顔に眼を注ぎながら諄々として説いた。
「君は今朝来僕に合す顔がないと心配しているそうだが、決してそんなことはない。聞けば君は愈※[#二の字点、1−2−22]従来の罪状を一切告白したそうだが、それは大変に好かった。最早数年来隠し切っていた罪を腹から出して終った以上、面目がないも何にもないではないか。却って今日は晴々した気持だろう。殊に基督教はかゝる場合に分る筈である。基督《キリスト》は罪ある者の為に来り罪ある者と共に死なれた。この同情の救主を頼りにする意味の分るのは今である。潔く信仰を以て検事局へ行き給え」
 ウイリヤムソンも続いて云った。
「キリストの十字架の両側にいた盗賊すらキリストに救われた。それを能く思って下さい」

 神戸《かんべ》、ウイリヤムソ
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