返辞の代りに呻き声が聞えた。と、戸が開いて支倉がよろ/\と出て来た。彼の口の廻りにはベットリと血がついて、右の拳からはタラ/\と血汐が流れて着物に垂れかゝっていた。
「どうしたのだっ」
 渡辺、石子の両刑事は同時にそう叫んで、両方から彼を押えた。
「うむ」
 支倉は苦しそうに喘いだ。
 かつて彼が銅貨を呑んで自殺を計って以来、再びそんな事をさせないように、厳重な警戒をしていたのであるから、刑事はこの有様を見て、只怪しみ驚く許りだった。
 急報によって直ぐ警察医は駆けつけて来た。
 取調の結果、支倉は便所の窓硝子を打欠いて、その破片を呑んだのである事が判明した。
 医師は一応診察した後、以前銅貨を呑んだ時のように、大した障りのない事を断言した。
 こんな事がいきり立っている刑事に素直に受入れられる筈がない。
「畜生」
 渡辺刑事は叫んだ。
「野郎又狂言自殺をやりやがったなっ」
「硝子なんか呑んだって死ねるものかい」
 石子刑事も口惜しそうに云った。
「そんな詰らない真似をして取調を遅らそうとしやがる。誰がなんと云ったって、きゃつが放火や殺人罪を犯している事は確実なんだ。白状させずに置くものか」
 けれども二人はその日は訊問を続ける事が出来なかった。支倉も弱っていたし、それにその夜大島司法主任がとう/\死んで終ったのだった。
 司法主任の死は支倉事件の為のみではなかったかも知れない。然しこの事件が重大な原因をなしていた事は確である。そして支倉の訊問中主任が死んだと云う事は署全体にとって大きな激動であった。
 大島主任に代って任命された人は佐藤と云う警部補であった。この人は諄々として温情を以て説くと云う人だった。それにこの人は始めの経緯を知らないから、支倉に対して先入的偏見乃至反感を持っていない。全く白紙の状態で彼に臨む事が出来た。それは支倉を自白させる上に於て確に有効だったと思われる。
 佐藤主任と根岸刑事は支倉に向って根気よく自白の利益である事を説き、署長に縋って罪の軽くなるように計る事を勧めた。その間、石子、渡辺両刑事や署長が交る/\続行訊問をやった事は無論である。然し支倉の訊問も随分長引いたから、今更こんな管々《くだ/\》しい取調べを繰返すのは止める事としよう。
 が、こゝに一つ省く事が出来ないのは、何故かくまで頑強だった支倉が飜然自白するに至ったかと云う問題だ。
 之は要するに妻子を枷にして諄々と説かれた為ではないかと思う。とすると後の事に関係があるから、最後の署長の取調べだけは省略する事が出来ない。
「支倉、お前も大概にして覚悟を極めたらどうか」
 支倉の所謂「十二時の鐘がボーンと鳴ると現われて来る」署長は賺《すか》すように云った。
「お前は妻子が可愛くないのか。僕にも子供があるから子の可愛いことはよく分るが、お前だってもいつまでも妻子を苦しめて置く気はあるまい。お前の自白が長引けば長引く程、妻子は余計な心配をする訳ではないか。こゝの所をよく考えて見るが好い」

「妻子に余計な苦労をかけるのはお前の本意じゃあるまい」
 署長の説諭は諄々として続く。
「僕はお前に身に覚えのない事を白状せよとは云っていない。覚えのある事は結局自白しなければならぬのだから、早い程好いと云っているのだよ。お前は後の事を心配しているのだろうが、立派にあゝやって家作もあるのだし、僕も出来るだけの事はする積りだから、妻子の事は少しも心配がないと思う。いつまでも頑張って辛い訊問を受けるより、男らしく白状して終ったら好いじゃないか」
「ねえ、支倉君」
 根岸刑事は署長の後を継いで云った。
「もう大抵分って呉れたろうと思う。いつも云う通り君の方でさえ素直に自白して呉れたら、我々は出来るだけ君の為を計る積りだ。署長さんもあゝ云う風に妻子の事は心配しなくても好いと引受けて下さるのだから、この上我々に迷惑をかけて、徒《いたずら》に自分の不利益を計るより、綺麗さっぱりと白状して終おうじゃないか」
 佐藤司法主任や根岸刑事は、ジリ/\と恩愛を枷に搦手《からめて》から攻める。一方では石子、渡辺両刑事が真向から呶鳴りつける。その合間々々には精力絶倫の庄司署長が倦まず撓まず訊問をする。一旦云わぬと決心したら金輪際口を開かぬと云う流石強情な支倉も、こゝに至っては全く弱り果てゝ終った。かてゝ加えて妻子の事も気に掛る。
 仮令《たとえ》一寸|逃《にげ》ても何とか口を開かねば、只知らぬ存ぜぬでは、突張れない羽目となって来た。その機微を察した署長はどうしてそれを見逃そうぞ。
「さあ、真直に云うが好い。小林貞は一体どこへやったのだ」
「誠にお手数をかけました」
 支倉は頭を下げながら、
「貞はいかにも私が誘拐したのです」
「うむ」
 署長は大きく眼を見張って、
「誘拐してどうした」
 支倉喜平は神楽坂署に捕われてから、昼夜責め問われても、只知らぬ存ぜぬの一点張りだったが、訊問こゝに一週|日《じつ》、彼は始めて貞の行方について口を開いたのだった。庄司署長も根岸刑事も飛び立つ思いであるが、さあらぬ体で、この先の返答をじっと待った。
「申訳ありません。売飛ばしました」
 支倉は深刻な表情を浮べながら答えた。
「なに、売飛ばした」
 署長は鸚鵡返しに云って、
「どこへ売飛ばした」
「上海《シャンハイ》です」
「何、上海?」
「はい」
「うん、そうか。然し、お前が直接|上海《シャンハイ》へ売渡す事はあるまい。誰かの手を経たのだろうが、それはどこの何者か」
「それは忘れました」
「なに、忘れた。そんな筈はない、思い出して見よ」
「何しろ三年も前の事だからすっかり忘れて終いました」
「そんな馬鹿な事があるものか。人並外れて記憶の好いお前が、そんな大事件を忘れて終う筈がない。云い出したからにはハッキリ云ったら好いだろう」
「どうも思い出せません」
 彼は再び以前の支倉に戻って、何を聞かれても、それから先は知らぬ存ぜぬと云い張り出した。
 然し凱歌はもう警察側に上っていた。一言も口を開かぬ時なら格別、仮令片言隻語でも犯した罪に関する事を喋ったら、もうしめたものである。それからは追求又追求して前後矛盾した所を突込んで行けば、いかな犯人でも尻尾を押えられるに極っている。
「おい、支倉」
 根岸は奥の手を出した。
「上海《シャンハイ》へ売飛ばしたとだけでは分らないじゃないか。一旦立派に白状しようと決心した以上、手数をかけないで云って終え」


          自白

 署長以下刑事達に入り代り責め問われて、今は口を開かぬ訳に行かなくなり、貞を上海《シャンハイ》に売飛ばしたと答えたが、それからそれへと追求急で、署長の手から石子、渡辺両刑事の手に渡される時分には、彼の答弁はしどろもどろで、辻棲の合わぬ事|夥《おびたゞ》しく、次第に上海へ売飛ばしたと云うのが怪しくなって来た。
 最後に再び根岸の訊問となって急所々々を突込まれ、揚句例の如く諄々として、一時も早く自白して、署長の慈悲に縋るが好いと説かれた時に、彼は非常に感激したらしく、両手をついてうな垂れた。
「恐れ入りました。もう包み隠しは致しません。すっかり白状いたします。どうぞ署長さんの前に連れて行って下さい」
 犯人自白の心理と云うとむずかしくなるが、どう云うものか犯人は出来るだけ偉い人の前で自白したがるものだと云う。こんな所にまで階級意識が働くのか、それとも少しでも正確に自白を伝えようと思うのか、兎に角面白い心理である。
 根岸刑事は支倉が署長の前で告白がしたいと云った時に、元より経験の深い彼であるから、それを不快と思う所か、心中大いに喜んで、早速署長にその事を伝えたのである。
 署長は雀躍せんばかりに喜んで、取るものも取敢ず駆けつけて来た。
 既に覚悟を極めた支倉はこゝで悪びれもせず、逐一彼の犯した罪過を白状した。
 彼の恐ろしい罪悪の内容は之を脚色すると、正に一篇の小説になるのであるが、今は先を急ぐがまゝに、只彼の自白に従って有のまゝを記して置くに止《とゞ》める。

 大正二年の秋、空高く晴れ渡った朝であった。支倉の為に忌わしい病気を感染された小林貞は、恥かしい思いをしながら伊皿子《いさらご》の某病院で治療を受け、トボ/\と家路に向ったが、彼女はふと道端に佇んでいた男を見ると、
「おや」
 と云って立止まった。
 そこには支倉喜平がニコ/\しながら仔んでいたのだった。
「貞や、わしはさっきからお前を待っていたのだがね」
 支倉は驚いている彼女の顔を眺めながら、
「お前の病気が早くよくなるように、もっと好いお医者の所へ連れてってやろうと思っているのだが、一緒にお出《い》で」
 貞と云う娘は既に度々云った通り当時僅に十六歳、それに温柔な物をはっきり云い切る事の出来ない、見ようによっては愚図とも云える内気な娘だったから、旧主の支倉の云う事ではあるし、恐ろしい企みがあるなどと云う事は少しも知らないから、いやだと振り切る事が出来ず、無言で支倉に従ったのだった。
 支倉は先ず彼女を安心させる為に、赤坂の順天堂病院へ彼女を連れ込んだ。然し、診察を受けさすと云う意志のない彼は、貞をゴタ/\した待合室に暫く待たせて置いた揚句、今日は病院の都合が悪いからと云って、再び外に連れ出した。それから彼は少女を新宿に伴った。新宿で彼は貞と共に或る活動写真館に這入り、時の移るのを待ったのだった。恐ろしい魔の手が背後に寄って、刻々に死の淵に導いている事を夢にも知らず、ラヴシーンの映画を子供心に嬉々として眺めていたとは、何たる運命の皮肉であろうか。
 活動小屋を出た頃には暮れ易い秋の日に、あたりは薄暗くなっていた。そこで夕食にと、支倉は貞に天どんを喰べさした。無心に天どんを喰べている少女を見て、支倉は果してどんな気持がしたであろうか。
 彼は新宿からの帰途を態《わざ》と山の手線の電車を選んだ。
 当時貞のいる知合の家と云うのも目黒駅からそう遠くなかったので、支倉は別に疑われる事なしに彼女を誘う事が出来た。
 目黒で下車した時には日はもうトップリ暮れていた。

 目黒駅で下車した支倉は態と裏路を選んで、女を池田ヶ原の方へ連れ込んだ。
 今でこそ目黒駅は乗降の客が群れて、中々の混雑を見せているが、大正三年頃は頗る閑散な駅で、昼間でも乗降客がせいぜい四、五人と云う有様で、ましてや夜となると乗降客は殆どなかった位である。それは大崎へ出る路は元より今のように家が立並んではいないし、表通りだけはバラ/\と家が立っているが、裏は直ぐ今云う池田ヶ原である。宵の口ではあるが、人通りなどは絶えてない。
 支倉はたゞ広い草茫々と生えている野中へと進んで行った。貞は何気なくついて行く。やがて原の中央の古井戸に近づくと、支倉は態と足を遅らして、少女と肩を並べるなり、あっと云う間もなく彼女に飛びかゝって、かねて用意の手拭で絞め殺し、死体は古井戸の中へ抛り込んで終った。
 この死体が越えて六ヵ月目に浮き上って、何者とも知れない自殺死体となって埋葬せられ、それから三年目の大正六年二月神楽坂署の手で発掘せられたのである。死体が着衣の一部と、犬歯の特異な発達によって、小林貞と確認せられたことは前に述べた通りである。
 貞の父親が血眼になって娘の行方を探した事は云うまでもない。又叔父の定次郎が支倉が怪しいと睨んで再三掛合った事も既に読者諸君の御承知の事である。然し、無論支倉は白《しら》を切って対手にしなかった。当時支倉が神戸《かんべ》牧師に宛て送った手紙にその有様が覗かれる。
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「此度の件に就ては色々御心尽しを忝《かたじけ》のうし、何と御礼申してよきやら、御礼の申上げようも無之《これなき》次第、主は必ず小生に成代《なりかわ》り、御先生の御心尽しの万分の一たりとも、屹度《きっと》主は御先生へ御酬い下さる事を信じて疑わざるものに候。(中略)あゝ牧師殿の切なる御言葉にお委せいたし、先方では病院より逃奔さすとか、今又隠すとか、一度ならず二度ならず失敬千万事、然し御先生の言葉もある事、目をつ
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