。
いよ/\、約束の金を叔父の定次郎に渡すと云う段になって、神戸牧師は支倉の態度に少し驚かされた。
支倉は叔父の定次郎から脅迫されて窮境に陥った時に、涙を流して神戸氏に訴えた。その時の彼の心情は蓋《けだ》し憐れむべきものがあって、悔悟の状も溢れ出て、何人と雖《いえど》もあの際尚彼を笞打《むちう》つと云うには忍びなかったであろう。それなればこそ神戸氏も気の毒に思って、調停の役を務めたのだったが、漸く解決して金を渡す時の彼の態度はガラリと変った。
彼は金を取られた事が残念で耐らないのだった。
「金を渡しました」
と云って神戸氏に報告した時の彼の無念そうな様子には、神戸氏も一驚を喫したのだった。
要するに彼は一種の守銭奴だったらしい。
或場合には狂的に金を出す事を惜しんだのである。彼の数々の犯罪もこの金銭を極端に愛すると云う所から起ったとも云える。彼が心から告白して救いを神戸氏に求めた時の至情は、いざ金を出すと云う際に、忽ちその影は潜めて、彼の半面醜い陋劣な心事が赤裸々に現われて来るのだった。此の点では彼は二重人格者であると云う事が云える。
表面的に事件が解決すると共に、神戸牧師は事件から手を引いて終った。叔父の定次郎は其後もチョイ/\支倉の家へ強請《ゆすり》に行ったらしい。小林貞が病院へ行く途中から姿を消したのはそれから間もなくであった。
神戸牧師は貞が行方不明になったと云う事を聞いた時に、あの強慾な叔父がいずれへか売飛ばしでもしたかと思って、憐れに感じたが、然しそれ以上に穿鑿する義理合も好奇心もなかったので、そのまゝにしていたのだった。支倉はその後時折神戸氏を訪ねて来た。
以上が神戸牧師が警察に出頭して陳述した要点だった。支倉の妻の静子がこの事について申述べた所も略《おおよそ》同様であった。
拘引以来三日間何事を問われても知らぬ存ぜぬと云い張っていた支倉は、又しても今日午後から刑事部屋に引出されて、石子、渡辺両刑事に調べられていた。
「おい、白ばくれるな、小林貞はどこへ隠したのだっ。早く云え」
短気の渡辺刑事は怒号していた。
支倉は相変らず黙々として冷やかな眼で刑事の顔を見上げていた。
「証拠は充分に上っているのだぞ」
石子刑事は歯がみをしながら云った。
「だまっていればいる程損なんだ。立派に白状すれば情状酌量と云う事がある。お前が強情を張る為に罪のない女房まで痛い目を見ているではないか」
「え、女房が調べられているって」
支倉はギクリとした。
「そうさ。罪もない細君は三日三晩続けざまに調べられているんだ」
石子は態《わざ》と、誇張して脅かしつけようとして、嘲けるように云った。
「そりゃひどい。女房が何を知るものか」
支倉は苦悶の色を隠そうとしながら云った。
「知ってるか知らないか調べているのだ」
石子は支倉がひるむ色を見せたので、嵩《かさ》にかゝって云ったが、支倉はまたプッツリと黙り込んで終った。
刑事部屋の三尺の戸がガラリと開いた。
現われたのは大島主任と根岸刑事である。
「未だ白状しないか。よし俺達が調べよう」
よし俺が調べようと云って出て来た主任の顔を見ると、石子は驚いたように叫んだ。
「あっ、主任、ひどく顔色が悪いじゃありませんか」
「うん」
主任は眉をひそめながら答えた。
「少し気分が悪いのだ」
大島主任の顔色は真蒼だった。見かけはでっぷりして丈夫そうな身体だったが、彼は性得《しょうとく》心臓が弱かったので、余り興奮したり、調べ物に身を入れたりすると、よく脳貧血を起すのだった。
「私達は未だ疲れやしませんから暫くお休みになったらどうですか」
渡辺刑事は心配そうに云った。
刑事達が調べ疲れると新手と入れ交ると見える。調べられる支倉はいつまでも休息を与えられないのだとすると、いかに頑健な彼でも、遂には反抗の力が尽きる時が来るだろうと思われる。
「いや、何でもない」
主任はきっぱり云った。
「僕は支倉が自白をする迄はとても休息などしていられないのだ」
「僕も随分留めたのだがね」
根岸刑事が云った。
「主任がどうしても聞かないのだ」
「そうですか、ではお願いする事にしましょう」
石子はそう云って渡辺刑事と共に部屋を出て行った。
「支倉」
主任はじっと彼を見詰めながら云った。
「お前は未だ小林貞の居場所を白状しないのかい」
「知らぬ事はいくら問われても答える事が出来ぬ」
支倉はいま/\しそうに答えた。
「そうか、よし、そんなら女の居所を俺が教えてやるッ」
主任は怒号した。
「えっ」
支倉はあきれたような表情で主任の顔を見上げた。
「小林貞は大崎の古井戸の中にいるのだッ」
「え、え」
支倉は飛上った。
「お前は警察が何にも知らぬと思っているのかッ」
主任が大崎の古井戸と云った時にさっと顔色を変えた支倉は、忽ち元の素知らぬ顔に戻って嘲るように云った。
「貞の行方が分っていれば好いじゃありませんか。今まで何だって私に訊ねたのです」
「何っ、貴様は本官を愚弄するかっ」
大島主任は憤怒の極に達したが、もう次の言葉を発する事が出来ずフラ/\と倒れようとした。
「あっ、どうしました。お気を確に」
根岸は驚いて主任を抱き止めた。
「な、なに、大丈夫だ」
主任は血の気の失せた唇を噛みしめながら云った。
「まあ、お休みなさい」
根岸は主任を無理に押とめて、支倉に向って云った。
「ねえ、支倉君、世話を焼かすじゃないか。司法主任を怒らしても仕方がないじゃないか。知ってるだけの事は素直に話した方が好いと僕は思うね」
「知らないから仕方がない」
支倉は相変らずぶっきら棒ながら、いくらか優しく答えた。
嫌疑者訊問法について或る著述を読んで見ると、第一に嫌疑者を脅かさない事、嫌疑者に対して立腹しない事、嫌疑の内容を知らしめない事などが挙げてある。今支倉喜平を訊問している警吏は主任始めいずれも経験に富んだ其道の豪の者揃いであるから、これしきの事を知らない筈がない。無論彼等は始めは定石通り訊問をしたのだが、元来支倉が一筋縄で行く人間ではないのだから、生優しい手段は尽《こと/″\》く効を奏せず、いら/\して来た彼等は今は殆ど頭ごなしに押えつけて白状させようとしている。
流石老巧の根岸刑事は未だいくらか余裕があって、ジリ/\押しに調べようとする。支倉がガミ/\云われ通した後だから、いくらか動かされた。
「ねえ、君」
根岸刑事は鋭い眼を薄気味悪く光らしながら、ジリ/\訊問を進める。
「我々は既に度々云う通り、証拠のない事を云っているのじゃないのだ。然し、今は証拠があるとかないとか云う事を超越して、直接君の良心に訴えたい。君も仮りにも宗教的な仕事をしていたのだろう。侮い改めよと人に云って聞かした事もある筈だ。ねえ、君が何か悪いと思う事をしていたら、此際すっかり云って貰おうじゃないか。我々の職務は決して犯人に不利益な事のみを捜し出すのじゃない。利益になる事も充分探り出して、意見書を添えて検事局へ送るのだよ。君が素直に自白さえすれば、我々は少しも君を憎んでいやしない、署長によく頼んで罪が軽くなるように計って貰おう。僕の云う事に偽りはない。君のように反抗をし続けていると結局君の損なんだよ」
「反抗している訳では毛頭ない」
根岸の縷々として尽きない言葉に、支倉は少し面を和げながら答えた。
「然し知らない事は返事が出来ないし、あまり威丈高になって聞かれると、勢い僕の方でも黙って引込んで居られないと云う訳だ」
「成程、君の云う事は尤だ。然し我々は君が知らない筈がないと思うのだがね」
「それは意見の相違で、つまり水かけ論さ」
「そうすると君は高輪の火事の時に半焼になったが、保険の勧誘員に金をやって全焼の扱いにして貰った事も否定するのだね」
「勧誘員に金はやったよ。然しそれは単なる謝礼の意味で、半焼を全焼にして貰った覚えなどはない」
「あの火事の晩に、君は俗に立ン坊と云う浮浪人に金を出して雇っているが、あれは何の為だったのだね」
「何の為でもない」
ふと口を滑らした支倉はあわてゝ続けた。
「いやそんな者を雇った覚えはない」
「ふん、ではそれはそうとして、君は小林貞の叔父の定次郎には度々脅迫されて、弱ったろうね」
「あいつは実に悪い奴だ」
支倉は口惜しそうに、
「あいつには随分ひどい目に会わされた」
「ふん、それで君が小林貞を病院から帰る途中で連れ出したのは何時《いつ》頃だったかね」
「そんな事は知らぬ」
支倉は中々根岸刑事の手に乗らない。春日遅々と云うけれども、根岸の念の入った取調べにいつか日はトップリと暮れて終《しま》った。
「根岸君」
じっと聞いていた主任は、苦しそうな表情を浮べながら、
「どうもいけない、頭がフラ/\する。僕は休息したいから、後を又石子達に頼む事としよう」
そう云いながら主任は力なげに出て行った。やがて、石子と渡辺が荒々しく這入って来た。
「おい、支倉」
石子はいきなり呼びかけた。
「未だ白状しないのか。往生際の悪い奴だ」
「いつまでも強情を張ると痛い目を見せるぞ」
渡辺は呶鳴った。
「支倉君」
根岸刑事が云った。
「この二人は若いから、ほんとに君をどんな目に遭わすか知れないよ。そんな詰らぬ目に遭ってから云うよりは、今云った方が好くないか。どうせ云わねばならぬ事だから、その方が得と云うものだぜ」
「得だろうが損だろうが、少しも知らぬ事は云えぬ」
夜は次第に濃くなって行く。ガランとした刑事部屋の真中に坐らせられた支倉の頭上には、高く薄暗い電燈が只一つ灯《つ》いているきりで、凹んだ眼、尖った頬骨、大きな鼻と凹凸の多い彼の顔にクッキリとした影をつけて、彼を一層物凄く見せていた。
「よしっ、そんならお前に見せるものがあるっ」
そう叫んで石子は何やら白いものを取り出したが、支倉は一目見ると、
「あっ」
と叫んだ。
支倉が一目見るより、あっと叫んだのは何事か。石子刑事の取り出したものは白く曝れた髑髏だった。
「支倉、この髑髏をよく見ろ」
石子は支倉の眼の前に気味の悪い頭蓋骨をつき出した。
「これは何だ」
支倉は叫んだ。
「分らないか。この髑髏の歯を見てみろ。之はお前に殺された小林貞の骸骨だ」
「え、え」
支倉は恐怖の色を現わして顔を背向《そむ》けようとした。
「おい、何もそう恐がる事はない」
渡辺刑事は石子から髑髏を受取りながら、
「お前の可愛がった女の骨じゃないか」
未だ深夜と云う程ではない。けれどもこゝは聞くだに恐ろしい刑事部屋で、あたりは寂としている。それに荒くれた刑事達に取巻かれて、髑髏を眼の前につきつけられたのであるから、流石の支倉もギョッとしたに相違ない。もし彼が小林貞を殺していたとすると、いかに恐怖を感じたであろうか。想像するに難くない。
然し、強胆な支倉はチラと取乱した姿を見せただけで、忽ち元の憎々しい人を人とも思わぬ態度に帰った。
「そんなものは俺は知らない。貞を殺したなどと飛んでもない事を云うな」
「貞の屍体は大崎の古井戸から出て来たのだがね」
根岸は静かに云った。
「君はその時に見に行ったそうだが、どんな気持がしたね」
「大崎の古井戸から女の屍体が上がった事があった。俺はそれを見に行ったのを覚えている。然し、あれは決して貞ではない」
「そんな事はないよ。確に貞の屍体だよ」
「いや、あの上がった屍体はすっかりと腐爛していたから誰の屍体だか分りゃしない。現にあの時の検視官にも何も分らなかった筈だ」
「支倉君、君は非常に委しいことを知っているね」
「――――」
「君は何か思い当る所があったので、検視の結果に深い注意を払っていたのだろう。ね、そうだろう」
「――――」
「支倉」
耐りかねたように石子刑事が叫んだ。
「お前が古井戸の中へ女を抛り込んだ事はいかに隠そうとしても無駄な事なのだ。早く有体《ありてい》に云って終《しま》え」
「いつまでも隠し切れるものではないよ」
根岸はネチ/\した調子で続ける。
「僕も随分い
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