て、お尋ねしたいのは支倉の家に居りました小林貞と云う女の事についてなのです」
「はゝあ」
「支倉が小林貞と云う娘に暴行を加えたと云う話なのですが」
「その事を私に聞こうと云うのですか」
 神戸牧師は稍鋭く聞いた。
「えゝ。そうなのです。支倉があなたに聞いて呉れと云うのです」
「支倉が私に聞いて呉れと云ったんですって?」
「えゝ」
「そうですか」
 神戸牧師は暫く考えていたが、
「支倉がそう云ったのなら、差支ないかも知れませんがね。兎に角人の名誉に関する事ですから申上げかねますね」
「それはそうでしょうけれども、真相が分りませぬと支倉に不利になるかも分りません。私達も出来るだけ事の真相を掴みたいと思っているのですから決して御迷惑になるような事はいたしませんから、ご存じの事を教えて下さい」
「あなたの云われる事は能く分りますがね。兎に角重大な事ですからな。まあ、云うのはお断りしたいと思います」
「では差支のない事だけを云って下さいませんか」
「さあ、どんな事が必要なのですか。一つ聞いて見て下さい。答えられるだけは答えますから」
「小林貞と云うのは、あなたの御世話で支倉方に行儀見習いと云うので置いて貰ったのだそうですが、そうですか」
「私の世話と云う程ではありません。あれの親が私の娘を支倉さんの家に置いて貰う事にしたらどうだろうと云うので、宜かろうと云った位のものです」
「その娘に支倉がどうとかしたと云うのは本当ですか」
「それは本当とも嘘とも申上げられません」
「では、本人が病気の為に暇を貰ったと云うのは本当ですか」
「えゝ、そんな事でした」
「何の為に病気になったのですか」
 石子はじっと神戸牧師の迷惑そうな顔を見上げた。

 石子刑事の質問に神戸牧師は愈※[#二の字点、1−2−22]迷惑そうな顔を曇らしながら、
「それはお答え出来ません」
「そうですか」
 石子は暫く考えていたが、牧師の態度が中々強硬で容易に話しそうもないので諦めたように、
「そう仰有られてはどうも仕方がありません。然し、私は職責上お尋ねするので、此まゝあなたから少しも要領を得ないで帰署する事は甚だ困るのですが」
 石子の落胆したようた様子を見た神戸牧師は、気の毒になったか少し言葉を和げながら、
「職責上と云われると私も知っているだけの事は云わなければなりますまい。ではこうして下さい。もし正式に検事なり署長なりから召喚があれば私はその人達の面前で申述べる事にしましょう。他人の迷惑になるかも知れない事を不用意のうちに喋るのは嫌ですから」
「では何ですか」
 石子は元気よく云った。
「署長の前でならお話し下さいますか」
「えゝ、もしそれが必要だと云うならそうしましょう」
「有難うございます」
 石子は頭を下げた。
「ではご迷惑でもそう願いましょう。帰署いたしまして、早速手続きをいたします」
 石子刑事は直接神戸牧師から支倉の事に関する有力な手懸りを得られなかったのは残念だったけれども、牧師自身が警察の呼び出しに応じて、署長の面前で話しても好いと云った言葉で稍勢いを得て神楽坂署に引上げた。

 石子が帰署したのはもう夕方近くだった。
 刑事部屋では支倉の妻静子の訊問が始まっていた。
 彼女は地味なお召の着物に黒っぽい紋つきの羽織を重ね、キチンと膝を揃えてじっとうな垂れながら刑事の不遠慮な鋭い質問に、只微にハイとかイーエとか答えるだけだった。時々血の気の失せた蒼白い顔を上げて、長い睫の下から怨ずるような、憤るような眼を刑事達に投げかけていた。
 静子の訊問はこの日を皮切りとして三日間続いた。警察当局者の考えでは支倉の犯した数々の罪、前後三回に亘る放火だとか、女中小林貞の殺害など必ず静子が知っているものと信じていたのだった。この女の口を開けさえすれば片が附くと云う考えだったから、この取調べは可成峻厳に行われたのである。
 支倉の訊問は彼の妻の訊問と平行して行われたのだったが、知らぬ存ぜぬ一点張りで押通した彼も、この妻の訊問には可成苦しんだものらしい。彼が後に自ら大正の佐倉宗五郎なりと気狂いじみた事を云い出したのも、或はこの時の事を指しているのかと思われる。
 彼女の訊問は前に云った通り三日続いた。然し、彼女はよくそれに堪えた。彼女は相当教養もあり、支倉も彼女に対しては十分尊敬を払っているようであり、夫婦仲も好いと思われるのだから、大抵の事は支倉も打明けるだろうし、打明けないまでも或程度まで察しがつくだろうし、どうでも支倉のやった事を知っているに違いないと云うので、刑事達は交る/″\厳重に彼女を責め立てたのだった。が、事実は彼等の予期に反して、彼女の口からは何事も聞く事が出来なかった。どうせ夫の大事を軽々しく喋る女ではないと云う見込ではあったけれども、こうまでしても口を開かないのは、実際に彼女は何事も知らないと認めるより仕方がなかった。
「ちょっ」
 三日目には流石の根岸刑事もとうとう匙を投げた。
「強情な女だ。だが実際知らないらしい」
「知らない筈はないと思うが」
 渡辺刑事は口惜しそうに云った。
「実際知らないのかなあ」
 かくて静子の口から分ったのは小林貞の暴行事件の真相だけだった。

 話は三年前に溯《さかのぼ》る。
 真白に咲き乱れた庭の沈丁花の強烈な香が書斎に押寄せて来て、青春の悩みをそゝり立てるような黄昏時だった。若い牧師|神戸《かんべ》玄次郎氏は庭に向った障子を開け放して、端然と坐って熱心に宗教書を読み耽っていた。
 机の上の瑞西《スイッツル》から持って帰った置時計はチクタクと一刻千金と云われる春の宵を静に刻んでいた。
 折柄襖が静かに開いて夫人が淑かに現われた。
「あの支倉さんが是非お目にかゝりたいと仰有るのですが」
 振り向いて夫人の顔を見た神戸氏は稍顔を曇らし乍ら反問した。
「支倉が?」
「はい」
 支倉は彼の妻の静子の紹介で神戸氏の所へ両三回出入しているのであるが、俗に云う虫が好かないと云うのか、神戸氏はどうも厚意が持てないのだった。罪人を救い、曲ったものを正すべき宗教家として、人を遇する上に感情を交えるのは慎むべき事であるが、神でない以上愛憎を感じるのは止むを得ぬ。尤も神戸氏は決して支倉を憎んでいるのではない。只何となく少しばかり気に入らぬと云うだけなのだ。彼の方から師事して教えを求めに来るのを排斥する訳には行かぬ。
 彼はバタリと机の上の書物を閉じた。
「こちらへお通しなさい」
 支倉喜平は一癖ある面魂《つらだましい》に一抹の不安を漂わせながら、書斎に這入って来た。
「御無沙汰いたしました」
 彼は平伏した。
「こちらこそ、お変りなくて結構です。まあお敷なさい」
 牧師は彼に蒲団をすゝめた。
「有難うございます」
 支倉は蒲団を敷こうともせず、モジ/\していた。
 暮色が忍びやかに部屋の中に這入って来た。
 あたりが模糊として、時計の音が思い出したように響いた。
 神戸氏はつと立上って頭上の電燈のスイッチを捻った。さっと黄色を帯びた温かい光が流れ落ちて、畳の目を鮮かに照した。夕闇は部屋の隅の方に追いやられた。
 モジ/\していた支倉は神戸氏が静かに元の座に帰った時に、つと決心したように頭を上げたが、直ぐに力なげにうな垂れた。
 息苦しいような沈黙が続いた。沈丁花の香が主客の鼻孔に忍込んでこの場を一層重苦しくするのだった。
 支倉は再びきっと顔を上げた。
「先生」
 彼は苦しそうに叫んだ。
「どうぞ笑って下さい。責めて下さい。支倉は哀れな人間です」
「どうしたのですか」
 神戸氏は気の毒そうに彼を見た。
「話して御覧なさい」
「先生、私は卑しい人間です。私は弱い人間です」
 口早にそう云い切った支倉は暫く息をついていたが、やがて悲痛な顔をしながら、
「先生、私の鼻を見て下さい」
 神戸牧師は彼の真黒ないかつい顔の真中についている巨大な鼻をじっと見た。牧師は真面目に彼の鼻を観察した。
 彼の真剣さは牧師に微笑だにさせる余裕を与えなかったのである。
「先生、私は性慾が旺盛なのです。私のこの大きな鼻がそれを証明しているのです」
 神戸氏は別に返答を与えないでじっと気の毒な彼の興奮している顔をうち守った。
「先生、どうぞ懲らして下さい。許して下さい。そうして救って下さい」
 支倉は殆ど泣かん許りに掻口説《かきくど》いた。
 お茶を運んで来た夫人はさっきから襖の外に佇んでいた。

「そう興奮しないで静かに話して下さい」
 神戸牧師は宥めるように支倉に云った。
「先生、私は大変な罪を犯したのです。汚れた罪なのです」
「どんな汚れた罪でも償えない筈はありません。話して御覧なさい」
「先生、私は女を犯したのです。無垢の少女を。私は前に云った通り性慾の醜い奴隷なのです。実は一月許り前に妻が郷里の秋田へ帰りました。その留守の閨《ねや》淋しさに私は女中の貞に挑みかゝり、とう/\暴力を以て獣慾を遂げて終ったのです」
 支倉は云い悪くそうにポツリ/\と口を切りながら、漸く自分の罪を云い終ると、じっと顔を伏せた。
 神戸氏は支倉の意外な告白に些か驚きながら、
「それは飛んだ事をしましたね」
「私の罪はそれだけではありません」
 やがて支倉は顔を上げて、情けなさそうに云った。
「私は女に忌わしい病気をうつして終ったのです」
「え、え」
 泰然として聞いていた牧師も余りの事に思わず声を上げた。彼はそんな忌わしい病気に犯されているのだろうか。これが仮りにも宗教界に身を置くものゝ所業だったのであろうか。
「何とも申上げようがありません。お目にかゝってこんな恥かしい事をお話しなければならない私をお憐み下さい」
「よく告白しました。あなたはきっと救われると思います」
「有難うございます。先生、私の浅間しい所業は罰せられずには置かなかったのです。女房にも女の親にも知られて終いました。女の叔父と云うのが手のつけられない無頼漢なのです。私は絶えず脅迫されるのです」
 神戸氏は鳥渡|誑《たぶらか》されたような気がした。彼は支倉のしょげ切った姿から眼を離して、庭前をチラリと見やった。夕闇に丁字の花が白く浮んでいた。
 支倉はさっきから真摯な態度で彼の罪を告白していた、と神戸氏は思っていたが、今聞くと彼は女中の伯父から脅迫される事を恐れて、自分の所へ縋りに来たとも思える。彼の流していたのは必ずしも悔悟の涙でなくて、救いを求めに来たのは彼の霊でなくて、肉体であったかも知れない。
「先生」
 支倉は黙り込んだ牧師を不安そうに見上げながら、
「私は心から悔悟しているのです。どうか救って下さい」
 支倉の悔悟は偽りか。この瞬間に於ける彼の至情は、よしそれが神の罰を恐れる為でなく、無頼漢の脅迫を恐れる為であったとしても、正に悔悟と認めて好い。彼のこの告白に対して石を投げて責め得る人は恐らくないであろう。神戸牧師は居住いを正した。
「で、私はどうすれば好いのですか」
「叔父との間を調停して頂きたいのです」
 支倉はホッとしながら答えた。
「無論私は再びこんな誤ちを犯さない事を誓います」
「その叔父とか云うのとはどう云う話になっているのです」
「たゞもう姪を元の通りの身体《からだ》にして帰せと云って喚き立てる許りなのです」
「そうですか」
 神戸氏は暫く考えていたが、
「私はこんな問題に触れるのは好みませんが、折角のお頼みですから、兎に角その叔父と云うのに一度会って見ましょう。所で父親の方はどうなのですか」
「無論立腹しているには違いないのですが、父の方は別に直接には何とも云わないのです」
「父親の方は私も一度位会った事があるかと思っています。父親をさし置いて叔父の方がそう喧しく云う事もないでしょう。兎に角私から穏かに話して見ましょう」

 神戸牧師の情ある言葉に支倉は度々頭を下げて礼を述べて帰って行った。
 それから神戸氏はいろ/\尽力して、漸くの事で女中の貞は親許に引取り、支倉は慰藉料として二百円、外に女の病気が治るまで病院に通わせ、その治療代を負担すると云う条件で一先ず型がついたのだった
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