は逃亡中に度々署や刑事に宛て愚弄を書き連ねた手紙を寄越したのはどう云う訳か」
 主任は少し調子を変えて外の事を聞き出した。
「あれは訪ねて来た刑事の態度が余り不遜で、非常に侮辱的に考えたから、その報復にあゝ云う手紙を書いたのだ」
「そうか、そういう訳だったのか」
 主任は軽くうなずいたが、急に調子を変えて、
「おい、こうなったらもう潔く何もかも云って終《しま》ったらどうだ。当署ではちゃんと調べがついているのだぞ」
「それは何の事だね。僕には少しも分らん」
 支倉は嘯《うそぶ》いた。
「そうか、では問うが、お前は今から三年前に小林貞と云う女を女中に置いたのを忘れやしまい」
「小林貞?」
 支倉の鋭い眼がギロリと動いた。
「そんな女中がいたと覚えている」
「その女にお前は暴行を加えた覚えがあるか」
「そんな覚えはない」
 彼は言下に否定した。
「白々しい事を云ってはいけない」
 主任は叱りつけるように云った。
「本人の叔父の小林定次郎からちゃんと暴行の告訴が出ているぞ」
「そんな筈はない」
 支倉は少し狼狽し出した。
「その話はちゃんと片がついている」
「片がついているとはどう云う事か」
「当時|神戸《かんべ》という知合の牧師が仲介にたって、相当の事をして以後問題の起らぬ筈になっている」
「そうか、それでは暴行の事実を認めるのだね」
「――――」
 支倉は黙って答えない。

 支倉が黙り込むと、大島主任は勝誇ったように追究した。
「黙っていては、分らんじゃないか」
「その事ならどうか神戸牧師に聞いて下さい」
 支倉は諦めたように答えた。
「そうか、よし、ではその事は後廻しとしよう」
 警部補は満足げにニヤリとしたが、直ぐ真顔になって、
「その小林貞と云う女中はその後行方不明になっているが、その居場所はお前が知っている筈だ。隠さずに云うが好い」
「そんな事は知らない」
 支倉は激しくかぶりを振った。
「わしが知る訳がない」
「馬鹿を云え」
 主任は一喝した。
「知らんとは云わさんぞ」
「貞の行方は叔父の定次郎が知ってる筈だ」
 支倉も負けないで喚くように云った。
「定次郎が病気の治療代を度々請求するので、一度本人を連れて来いと云った所、定次郎は本人を見せるともう金が取れないと思って隠して終ったのだ」
「そうか、するとお前は定次郎に本人を連れて来い、金を遣るとこう云ったのだな」
「そうです」
「それじゃお前が貞を隠したとしか思えないじゃないか」
「どうしてですか」
「貞が出て来なければ金を遣る必要がないじゃないか」
「そんな事になるかも知れないが、わしは貞を隠した覚えは毛頭ない」
「そうか、それからもう一つ聞くが、お前は前後三回も火事に遭っているね」
「遭っている」
 支倉はうなずいた。
「同じ人が三度も続けて火事に遭うのは奇妙だと思わないか」
「別に奇妙だとは思わない。非常に運が悪いと思っている」
「然し、運が悪い所ではないじゃないか。お前は火事の度に保険金が這入り、だん/\大きい宅《うち》に移っているじゃないか」
「そんな失敬な質問には僕は答えない」
 支倉はきっと大きい口を結んだ。
「答えない訳には行かないぞ」
 主任は冷笑した。
「お前はその火事がいずれも放火だと云う事を知っているだろう」
「三度とも放火だかどうだか知らないが、神田の時は放火だと聞いた」
「お前が放火をしたのだろう」
「以ての外だ。僕はあの火事の為に大切な書籍も皆焼いて終《しま》って、大変迷惑したんだ。冗談もいゝ加減にして貰いたい」
「黙れ」
 主任は堪えていた癇癪が一時に破裂したように呶鳴った。
「宜い加減な事を云って事がすむと思うと大間違いだぞ。俺の云う事には一々証拠があるのだ。根もないことを聞いているのではないぞ」
「証拠?」
 支倉は少しも動じない。
「どんな証拠か知らぬが見せて貰いたいものだ」
「では知らぬと云うのだな」
「知らぬ、一切知らぬ」
「よし、では今は之だけにして置く。追って取調べるから、それまでによく考えて置け」
「考えても知らぬものは知らぬ。そう/\度々呼出されては迷惑千万だ。それ以上聞く事がないなら帰して貰いたい」
「何、帰して呉れ?」
 主任は憎々しげに支倉を睨んだ。
「貴様のような奴を帰す事が出来るものか。大人しく留置場に這入って居れ」
「じゃ、僕を拘留すると云うのか」
 支倉は気色ばんだ。
「それは人権蹂躙も甚だしい。一体何の理由で僕を拘留するのだ。僕は正業に従事している。何一つ法に触れるような事をしていない。拘留を受ける覚えはない」
 支倉は喚き立てた。

 喚き立てる支倉を尻目にかけながら、大島司法主任は冷かに云った。
「貴様は道路交通妨害罪で二十九日間拘留処分に附するのだ」
「え、道路交通妨害罪?」
 支倉は唖然とした。
 当時警察の権限ではいかに濃厚な嫌疑者でも、訊問の為に身柄を拘留すると云う事は出来なかった。で、警察ではそういう嫌疑者に好い加減な罪名をつけて拘留するのが通例だった。
 支倉の場合には殆ど理由に困って、交通妨害などゝ云う罪を附したのだが、之は全く窮余の策で、いわば人権蹂躙である。然し、嫌疑者に一々帰宅を許していては、逃走なり証拠湮滅なりの恐れがあるから、多くはこう云う風に何か罪名をつけて拘留したので、司法当局でも黙認と云ったような形だったらしい。
「こいつを留置場へ抛り込んで置け」
 主任は傍にいた刑事に命令した。
 支倉は二人ばかりの刑事に荒々しく引立て行かれた。
 後に残った石子と渡辺の二刑事は非難するような眼を主任に向けた。
「主任」
 石子が勢い込んで言った。
「あんな生温い事ではあいつが泥を吐く気遣いはありません」
「まあ、そうせくな」
 主任は押えつけるように答えた。
「そう手取早く行くものじゃない。どうせ皆で交る/″\攻め立てなければ駄目さ」
「そりゃそうですけれども」
「午後にもう一回僕がやるから、その次は根岸君と君とにやって貰うんだね」
「そうですね」
 根岸は稍考えていたが、
「私は主任のお手伝いをする事にして、石子君と渡辺君とに元気の好いところをやって貰いましょうか」
「それも宜かろう」
 主任はうなずいた。
「それから、あいつの云った神戸《かんべ》とか云う牧師ですね。一度調べて見なければなりませんね」
「そうだ」
 主任は思い出したように、
「早速召喚しよう」
「いや」
 根岸は凹んだ眼を考え深そうにギロリと光らしながら、
「喚んでも来るかどうか分りませんよ。石子君にでも行って貰うんですなあ」
「行きましょう」
 石子が口を出した。
「では石子君は神戸牧師の所へ行って呉れ給え。それから根岸君と渡辺君とは午後僕の調べた後を、もう一度厳重にやって呉れ給え」
「承知しました」
 三刑事は頭を下げた。
「どれ昼飯にでもしようか」
 大島主任は機嫌よく立上ろうとした。
 所へ、あわたゞしく一人の刑事が走って来た。
「主任、支倉がどうしたのか苦悶を始めました。監房をのたうち廻っています」
「えっ」
 一同は驚いて顔を見合せたが、主任は口早に石子に向って云った。
「君、あいつの懐中物はすっかり取り上げたんだろうね」
「えゝ」
 石子はうなずいた。
「毒薬を持っていたとか云うが――」
「毒薬は無論第一に取上げました」
「では、急病でも起したと見える」
 主任は飛んで来た刑事を振り向いて、
「直ぐ医者を呼んで呉れ給え」
「承知しました」
 刑事が出て行くと、主任はすっくと立上った。
「おい、見に行こう」
 一同がうち連れて独房の前に立つと、薄暗い不潔な箱の中で、支倉が顔蒼ざめて手足をバタバタさせながら呻吟していた。

「どうしたのか」
 大島主任は独房の中を覗きながら声をかけた。
「うーむ」
 支倉は然し答えようともしないで唸り続けていた。
 石子刑事は檻の中に這入って、支倉を抱き起したが、彼は蒼い顔をして苦悶をしているだけで、吐血した模様もない。
「どうしたんだ」
 石子は呶鳴った。
「うーむ、苦しい、俺は死ぬんだ」
 支倉は喘ぎながら答えた。
 所へ急報によって警察医が駆けつけて来た。
 小柄な老医は支倉の脈をじっと握っていたが、
「どうしたんだね、腹でも痛いのかね」
 と優しく聞いた。
「えゝ」
 支倉はグッタリしながら答えた。
「そうか、抛っときゃ治るよ。大した事じゃない。何か悪いものを食べたのか」
「えゝ、呑んだのです」
「呑んだ?」
 医師は驚きながら、
「何を呑んだのだね」
「銅貨を呑んだのです。僕は、僕は死ぬ積りなのだ」
「何、銅貨を呑んだ」
 石子は叫んだ。
「どこにそんなものを隠していたのだ」
 支倉は苦しそうにグッタリしたまゝに答えない。石子は心配そうに医師に聞いた。
「大丈夫でしょうか」
「大丈夫です」
 医師はうなずいた。
「銅貨を呑んだって死にゃしません。脈も確ですし、心配はありません」
「そうですか」
 石子は安心したように、
「いやに世話を焼かせる奴だ。ちょっいつの間にか銅貨をくすねていやがる。未だ何か隠しているんだろう」
 こう云って石子は腹立たしそうに支倉を揺ぶるようにして厳重に懐中や袂を探り初めた。
「痛い、ひどい事をするなっ」
 支倉は喚いた。
「何か薬をやって頂けますか」
 主任は支倉を尻目にかけながら医師に聞いた。
「えゝ、健胃剤でもやりましょう」
「ほんとうに大丈夫ですか」
「えゝ、大丈夫ですよ」
「おい、支倉」
 主任は支倉の方を振り向くと大音声に叱りつけた。
「詰らぬ真似をするな。そんな馬鹿な事をして訊問を遅らそうとしたって駄目だぞ」
 支倉は主任の罵声を聞くと、ジロリと凄い眼を向けたが、そのまゝ黙り込んで了った。
 主任は暫く支倉を睨みつけていたが、やがて刑事達を従えて足音荒く部屋に引上げた。
「ちょっ人騒がせな奴だ」
 主任は未だプン/\していた。
「主任、直ぐ引出して来て、とっちめてやろうじゃありませんか」
 石子も興奮しながら云った。
「それが好い、よし俺が引出して来てやろう」
 気の早い渡辺刑事は立ち上って出て行こうとした。
「おい/\、そうあわてるな」
 根岸刑事は出て行こうとした渡辺を呼び留めた。
「いくら何でも今調べるのは可哀想だ。それに今聞いたって云う気遣いはないよ。今晩一晩位は独房に置いとくのが好いのだ。どんな強情な奴でも、一人置かれるといろ/\と考えて心細くなるから、素直に云うものだよ」
「それは対手《あいて》に依るよ」
 渡辺は渋々席につきながら、
「あいつにはそんな生優しい事では行かないよ」
「まあ、行くか行かぬかそっとして置くさ。それよりね、主任」
 根岸は大島の方を見て、
「女房を一度喚んで調べましょうや、何か知っているかも知れませんぜ」
「うむ、そうだ。そうしよう」
 主任はうなずいた。

 支倉の妻の静子は根岸刑事の献策によって警察に出頭を命ぜられて、取調を受ける事になった。
 それより前に石子刑事は取敢ず芝今里町の神戸《かんべ》牧師を訪ねたのだった。
 神戸牧師と云うのは当時三十五、六、漸く円熟境に這入ろうとする年配で、外国仕込の瀟洒たる宗教家だった。支倉の妻が日曜学校の教師などをして、同派に属している関係から知合となり、妻の縁で支倉も続いて出入するようになり、小林貞を支倉の家に預けるようにしたのも、彼が口を利いたのだった。そんな関係で支倉は神戸牧師に師事をしていたのだった。
 石子刑事が名刺を通じると直ぐに二階の一室に通された。
 白皙な顔に稍厚ぽったい唇をきっと結んで現われた牧師は、石子にちょっと会釈して座につくと不興気に云った。
「何か御用事ですか」
「はあ、鳥渡支倉の事についてお伺いしたい事があるのです」
 石子は畏まって云った。
「支倉? はゝあ、どんな事ですか」
「実は支倉はある嫌疑で神楽坂署に留置してあるのです」
「支倉が」
 神戸牧師は鳥渡驚いたようだったが、直ぐ平然として、
「はゝあ、どう云う嫌疑ですか」
「それはいろ/\の嫌疑で鳥渡こゝでは申上げられないのですが、それにつきまし
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