変相でもしているので、発見出来ないのではなかろうか。石子はいろ/\に思い惑いながらも、後から後からと続いて来る電車に油断なく眼を配っていた。
鳥渡電車が杜切れた。
石子はホッと張りつめた息を抜いて、あたりを見廻した。彼の前にはいろ/\の風体の人が右往左往していた。重そうな荷を積んだ荷馬車の馬の手綱を引いて、輓子《ひきこ》は呑気そうな鼻歌を歌いながら、彼の前を通り過ぎた。水溜りでもぬかるみでもお関いなしにガタビシと進んで行くので、泥が礫《つぶて》のように四方に飛んだ。粋な爪皮《つまかわ》をつけた足駄を穿いた年増が危げにその間を縫いながら、着物に撥ねかけられた泥を恨めしそうに眺めていたりした。
そんな目まぐるしいような光景が石子の眼の前で展開していたが彼は遠くをばかり見つめていた眼の調節が急に取れないで、それがボンヤリと説明のない映写の幕を見ている様に眼に写るのだった。
石子はふと我に返って、あわてゝ軌道の方を見た。恰度一台の電車が疾駆して来る所だった。暫く杜切れていたので車掌台には外へハミ出す程客が乗っていた。やがてけたゝましい音を立てゝ、電車は石子の前を通り過ぎたがその時に一人の面構えの獰猛な男が電車の戸口から一杯人の詰っている車掌台へ出ようとあせっている姿が眼についた。あゝ、それはこの一月間夢にだに忘れないで、尋ね廻っている仇敵支倉の姿だった!
石子は思わず、
「しめたっ!」
と叫んだ。
電車は石子から二十間程離れた停留場に停った。乗客は雪崩のように争って降りた。その中に揉み込まれて支倉の油断なく眼を光らしながら降りる姿がハッキリ見えた。彼は黒っぽい二重廻しを着て[#「着て」は底本では「来て」]足駄を穿いていた。
「足駄などを穿いて悠々としている所を見ると、俺達の計画は一向知らないと見えるぞ」
石子は彼の姿を見失わないように、そっと物蔭から出て跡をつけながら、そう呟いた。彼の胸はもう嬉しさでワク/\していたが、勉めて平静を装って気づかれないようにだん/\彼に迫って行った。
支倉はのろ/\と八幡社の鳥居の方へ進んで行った。そこには十人ばかりの刑事が腕を撫で待ち構えているのだ。後からはジリ/\と石子刑事が追って行く。彼は正に網の中の魚である。流石の彼も浅田の手紙にこんな恐ろしい魂胆があるとは気がつかなかったと見えて、恰《あたか》も何者かに操られるように、ヒョロ/\と境内に這入って行く、彼の運命も遂に尽きたのだろうか。
支倉の足が一歩境内に踏み込むと、石子はホッと安心の息をついた。未だ彼との間は十間ばかり離れているので、果して同僚の刑事が支倉の姿を認めたかどうか分らないけれども、間もなく刑事は石子の姿を認めるだろう。そうすれば直ぐに合図をするから、苦もなく捕って終う。兎に角もう十分に網の中に追い込んだのだから心配はない。
石子刑事がホッと気を緩めた瞬間に、支倉は不意に後を振り向いた。あっと思う暇もなく石子は彼に見つけられて終った。支倉は異様な叫声を上げると、直に足駄を脱ぎ飛ばした。
受縛
不意に振り向いた支倉は石子刑事の姿を見ると、忽ち跣足《はだし》になって一散に鳥居内に駆け込んだ。安心し切っていた石子はこの思いがけない出来事にあわて気味に彼の跡を追った。
支倉《はせくら》と石子との距離は近づいた、と、支倉はヒラリと身を転じて一廻りすると、恰度石子と入れ交りになって、そのまゝ電車通りの方に駆け出した。袋の鼠も同然と境内の方へ追い詰めて行った石子は、はっと彼の二重廻しを掴んだが、彼は素早くそれを脱ぎ棄てたので石子刑事はタジ/\とした。その暇に彼はドン/\逃げて行く。咄嗟の間に早くも一切を悟った支倉は境内の方へ逃げては一大事と、態と石子を近くまで誘き寄せ、一歩の所でクルリと方向を転じて通りの方へ逃げ出したのである。
文章に書くと相当長いが、之すべて一瞬の出来事で、鳥居近くに構えていた田沼刑事もそれと悟る暇がなかったのだった。
「しまった」
そう心の中で叫びながら、石子刑事は忽ち用意の呼子の笛をピリ/\と吹いた。笛の音に応じて境内からバラ/\と四、五人の思い思いの服装の刑事達が現われた。見ると石子が一人の怪しい男を追って行く。それっと云うので一瞬の猶予もなく彼等はその後を追った。
支倉は毬栗頭を振り立てゝ走って行く。結んだ帯がいつしか解けて、長く垂れた端が裾に絡みつく。支倉は頑丈な身体の持主で、気力も頗《すこぶ》る盛んではあったが、この時に年三十八と云うので、そう思うようには駆けられない。追って来るのは本職の刑事で半ばは二十台の血気盛んな屈強な男である。彼は次第に追いつめられた。
停留場の附近で、先頭に立った石子刑事の手が彼の腕に触れた。道行く人が何事ぞと驚いているうちに、後から駆けて来た四、五人の刑事がバラ/\と彼に折重なって捕縄は忽ちかけられた。
かくて怪人支倉は逃走後一ヵ月有余、三月の空蒼く晴れ渡った朝、深川八幡社頭で哀れにも神楽坂署員に依って捕縛せられたのだった。聖書窃盗の嫌疑を受けて逃亡した彼は、こゝに他日恐ろしい罪名の許に鉄窓に十年の長きに亘って坤吟する呪わしい贖罪の第一歩を踏み出したのだった。
縛についた時の彼の服装は茶の中折に縞の綿入の着流し、その上に前に述べた通り黒っぽい二重廻しを着て足駄を穿いていた。が、彼の懐中には現金八十余円入の財布の外に、新しい麻裏の草履が一足に、弁慶縞の鳥打帽子が一つ、毒薬硫酸ストリキニーネの小瓶が潜められていた。麻裏草履と鳥打帽子は云うまでもなく、すわと云う時に逃げ出す為で、毒薬は最後の処決の為であろう。之を見ても彼の用意と覚悟が覗われる。
私は今まで長々と支倉喜平が逃亡から受縛に至るまでの経路を述べた。その如何に波瀾重畳を極めたるかは読者諸君に、私の拙《つたな》い筆を以てしてもよくお分りの事と思う。大正六年と云えば正に今より十年前であるが、この時代に於て、アルセーヌルパンの小説物語をそのまゝ地で行くような大胆不敵にして、かくまで奸智に長けた曲者が実在していようとは、種々の空想を逞しゅうして探偵小説を書く私でさえが夢想だにしなかった所である。具《つぶさ》に今日までの物語を読まれた諸君は今更ながら書き立てなくても、彼がいかなる権謀を逞しゅうしたか十分お分りの筈である。
彼の受縛を境としてこの物語の前篇は尽きる。これより後に現われる訊問より断罪に至る中篇は、後篇に当る彼の執念の呪と相俟って、更に奇々怪々たる事実を諸君の眼前に展開するのである。
訊問
捕えられた支倉の奇々怪々な言行を述べるのに先立って、鳥渡《ちょっと》断って置きたい事がある。之は読者諸君に取っては退屈な事で御迷惑であるかも知れない。然し之は是非述べて置かないと後の事に重大な関係があるので、一回だけ辛抱をして貰いたいと思う。
それは支倉の容貌の事であるが、彼は好く云えば魁偉、悪く云えば醜悪と云うか、兇悪と云うか、兎に角余程の悪相であったらしい。背丈《せい》はさして高くなく、肉付も普通で所謂中肉中|背丈《ぜい》だが、色飽まで黒く、それに一際目立つクッキリとした太い眉、眼は大きくギロリ/\と動く物凄さ。頬骨は高く出て、見るから頑丈そうな身体、それに生れつきの大音の奥州弁でまくし立てる所は、彼のいかつい毬栗頭と相俟って、さながら画に描いた叡山の悪僧を目のあたり見るようだった。彼を知っている人は殆ど口を揃えて第一印象がどうしても悪人としか思えなかったと云う。
尤も醜怪な悪相をしていたからと云って、心まで悪人だとは極っていない。史記の仲尼弟子列伝中に孔子が、「吾言を以て人を取り之を宰予《さいよ》に失う。貌《ぼう》を以て人を取り之を子羽《しう》に失う」と云っている。宰予と云うのは論語にもある通り昼寝をして孔子に叱られた人で、弁舌利口だったが人間は小人だった。そこで孔子が弁舌に迷わされて一時胡麻化されたのを後悔した言葉だ。子羽と云うのは本名を澹台滅明と云って容貌が頗る醜怪だったので、孔子も私《ひそ》かに排斥して弟子とするのを喜ばなかった。所がこの人は頗る立派な人で、後に弟子の三百人も取って、其名を諸侯に知られるようになった。そこで孔子が容貌で人を判断して誤った事を後悔して、宰予の場合と並べて弟子達を戒められたのだ。尤も之には異説があって、孔子家語によると、子羽は容貌頗る君子然としていたが、心は駄目だった。孔子が容貌の君子然としているのに迷わされて、しくじったと恰《まる》で正反対の事が書いてある。が、要するに孔子のような大聖でも、つい容貌で人を判断して誤った場合があったので、孔子の失敗談は後にも先にも此の一事だけだから面白い。
所で、支倉喜平だが、彼はかく容貌が悪相だったが、その上に彼は実際悪い事をしている。既に前科三犯を重ねて、今又聖書の窃盗を遣り、女中に来た少女に暴行を加えている。之は何れも証拠があり罪状歴然としている上に、更に放火殺人と云う重罪の嫌疑をかけられている。之では警察当局者でなくても、先ず彼は悪人であると見なければならない。それから石子刑事が自宅を訪ねて来た時に逃亡してから逮捕せられるに至るまでの彼の行動と云うものは、頗る警察を愚弄したもので、その大胆不敵と緻密なる用意、奸智に長けたる事には驚く外はない。逃亡中に北紺屋署へ出頭して市電気局を訴えようとしたり、写真館に弟子入りしてそこを手紙の仲介所にしたり、いずれも普通一般の人間の考え及ぶ所ではない。
彼が何故あんなに逃げ歩いたか、何故警察に宛て嘲弄状を度々送ったか。彼自身の弁明は後に出て来るが、頗る曖昧で第三者を首肯せしめる訳に行かぬ。こんな点は彼が確に性格異状者である事を語っていると思う。
で、こう云う訳で神楽坂署では支倉を目するに重大犯人であると考えたのは当然である。殊に刑事達は彼の嘲弄に一方ならず激昂していた際であるから、彼が愈※[#二の字点、1−2−22]捕縛せられて署へ護送せられた時には蓋し署内に凱歌の声が溢れたろうと思う。
さて支倉は神楽坂署へ押送されると、直に大島司法主任の面前に引っ張り出された。
彼はいかなる訊問を受けるか。彼果して素直に自白するや否や。
支倉喜平は司法主任の面前に引据えられた。左右には刑事が控えている。
もし誇張した形容が許されるなら、司法主任以下直接事件の関係者たる根岸、石子、渡辺の諸刑事は、正に勇躍して彼を迎えた事だろうと思う。蓋し支倉の一筋縄で行かぬ人間である事は明かに分っているのであるから、証拠も既に相当集まっているのであるし、こいつ一番是が非でも泥を吐かしてやろうと云う意気込みが、云い合さないまでも、各自の心のうちに十分あった事であろう。
支倉も身から出た事とは云いながら、訊問の始めからこう云う印象を警吏に持たれるのは哀れな所がある。
「姓名は」
司法主任はジッと彼を睨みつけながら厳かに云った。
「支倉《はせくら》喜平」
彼は臆する所なく濁声《だみごえ》で答えた。
「年齢は」
「三十八歳」
「住所は」
「芝白金三光町××番地」
「職業は」
「伝道師です」
「うむ」
司法主任は大きくうなずいて、下腹に力を入れながら、
「君は当署から使が行って同行を求めた時に、何故偽って逃亡したのか」
「逃亡した訳じゃない」
支倉は主任の言葉を跳ね返すように、
「警察などと云う所は詰らぬ事で人を呼び出して、三日も四日も勝手に留て置くものだ。僕はそんな侮辱的な事をされるのが心外だったから出頭しなかったまでだ」
「うむ」
主任は彼の不敵な答弁に些か感情を損ねたらしく、いら/\する様子が見えた。
「お前はどう云う訳で呼び出されるのか知っていたか」
「多分聖書の事だと思う」
彼は太い眉を上げながら大音に答えた。
「聖書の事なら決して君達に手数はかけない、あれは譲り受けたのだから、どこへ売り払おうと僕の勝手だ」
「それなら尚の事逃げ廻るには及ばんじゃないか。何か外に後暗い事があるに相違ない」
「そんな事は絶対にない」
「お前
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