の戸がガラリと開いた。渡辺刑事はホッと安心の息をついた。這入って来たのは思いもかけぬ石子刑事だった。
「よく来て呉れた」
 石子の手を執らんばかりにして渡辺は云った。
「之を見て呉れ給え」
「支倉から何か云って来たのか」
 石子は渡辺が只ならぬ様子で差出した手紙を一目見るより叫んだ。そうして引ったくるように受取ると、一気に読み始めた。
「うん、又裏を掻かれたのだ」
 渡辺は情けなさそうに云った。
「畜生!」
 読み終った石子刑事は唇を噛んだ。
「どこまで悪智恵の働く奴だか訳が分らない」
「一時も早く公園の警戒を解いて貰わねばならないのだ」
 渡辺が叫んだ。
「そうだ。もしきゃつに悟られると大変だ。すぐ電話をかけて警戒を解くとしよう」
 石子は直ぐ応じたが、落胆したようにつけ加えた。
「あゝ、今日こそは逃がさないと思ったのに」
「僕もそう思って今朝からソワ/\していたんだ」
 渡辺は残念そうに云った。
「兎に角、僕は電話をかけて来るよ。何、未だ望みはあるよ。支倉に悟られて終った訳じゃないんだから。鳥渡待っていて呉れ給え。悠《ゆっく》り対策を講じよう」
 石子はそう云い捨てゝ足早に外へ出た。

 渡辺刑事が支倉の手紙を握ったまゝ、何か考えるともなく、茫然突立っていると、やがて石子刑事が急ぎ足で帰って来た。
「君、もう心配はないよ」
 石子は渡辺の顔を見ると直ぐに云った。
「警戒は直ぐ解く事になった。もうきゃつに悟られる気遣いはない。それに一人だけ公園に残して、きゃつらしい奴が立廻らないか見せる事にしてあるよ」
「そうか、それで安心した」
 渡辺はほんとうに安心したように云った。
「所で第二段の備えだがね。僕は真逆《まさか》支倉が君が浅田に書かした手紙を真向から信じないのではないと思う」
「僕もそう思うよ。きゃつは疑り深い性質《たち》だから、安心の為にこんな手紙を寄越して、会見の場所を変えたのだろう」
「それに違いないが、愈※[#二の字点、1−2−22]そうとすると、一時も早く返辞をやって彼を安心させなければいけない」
「そうだ、すぐに浅田に返辞を書かせよう」
「そうして呉れ給え。僕は今日こそ間違いはないと思ったが、対手が対手だから、もしやと懸念して両国へ行く前にこゝへ訪ねたのだったが、来て好い事をしたね」
「そうだったよ」
 渡辺刑事はうなずいた。
「君が来て呉れないと、この手紙の事をみんなに伝える事が出来ないで、大変困った事になるんだったよ」
「きゃつの旧悪の事は大分はっきりして来たんでね」
 石子は顔を曇らしながら、
「一時も早く捕えないと、警察の威信にもかゝわるし、第一僕は署長にたいしてあわせる顔がないんだ」
「その点は僕だって同じ事だ。署長のいら/\している顔を見ると身を切られるより辛い。全くお互に意気地がないんだからなあ。毎日のように嘲弄状を受取りながら犯人が挙げられないんだからなあ」
「そうだよ、僕達はとても根岸のように落着き払っていられないよ」
「矢張り年の関係だなあ。僕達も年を取ればあゝなるかも知れないが、今はとてもあいつの真似は出来ないなあ」
 渡辺は相槌を打ったが、ふと思いついたように、
「で何かい、あの屍体は愈※[#二の字点、1−2−22]小林貞と確定したのかい」
「うん、確定したよ」
 石子は急に晴々《はれ/″\》とした顔をした。
「そう/\、君はずっとこの家に張り込んでいたのだから、知らなかったっけね。頭蓋骨に非常な特徴があってね、それに残っていた着衣の一部が家出当時のものと判明したから、もう大丈夫だよ。只骨組が少し大き過ぎると云うのだが、大した障りにはなるまいと思う」
「そうか、それは手柄だったね」
「そんな話は後廻しとして、浅田に返辞を書かそうじゃないか」
「そうだ」
 渡辺刑事は階段の上り口から大声で呼んだ。
「おい、君、鳥渡降りて来て呉れ給え」
 浅田は仏頂面をしてノッシ/\と降りて来た。彼はジロリと石子を横目で睨んだ。
「支倉からこう云う返辞が来たんだ」
 渡辺は浅田に支倉からの手紙を示した。
「誰が開けたんですか」
 浅田は手紙を受取ると、苦り切ってそう云った。
「僕が開けたんだ。急場の場合で仕方がなかったんだ」
 渡辺は押えつけるように云った。
「そうですか」
 浅田は一言そう云ったきりで、暫く拡げた手紙を眺めていた。
「承知したと云う返辞を書いて貰いたいんだ」
 渡辺は厳かに云った。
「ようござんす」
 浅田は割に素直に返辞をした。
「支倉さんも運が尽きましたね。八幡さまの境内で、捕るようになるとは神罰とでも云うのでしょう」


          網の魚

 大正六年三月某日、前日午後からシト/\と降り出した春雨は夜に這入ってその勢いを増し、今日の天気はどうあろうと気遣われたのが、暁方からカラリと晴れ上って、朝はシトヾに濡れた路に所々に水溜があったり、大きく轍《わだち》の跡がついているのを名残として、美しい朝日がキラ/\と輝いて、屋根からも路の上からも橋の上からも、悠々と陽炎《かげろう》を立たせていた。
 由緒のある深川八幡宮の広々とした境内は濡そぼった土の香しめやかに、殊更に掃清めでもしたように、敷つめた砂の色が鮮かに浮び出ていた。雨に打たれて半《なかば》砂の中に潜り込んだ、紙片が所々に見えて、反て風情を添えていた。
 未だ昼には間のある事とて、露店商人も数える程しかなく、ホンの子供対手の駄菓子店や安い玩具を売る店などが、老婆や中年のおかみさんによって、ションボリと番をせられているだけで、怪しげな薬を売ったり、秘術めいた薄ぺらな本などを売りつける香具師《やし》達の姿は一つも見当らなかった。
 社頭は静寂としていた。
 拝殿の前の敷石には女鳩男鳩が入乱れて、春光を浴びながら嬉々として何かを漁っていた。小意気な姐さんが袋物の店を張る手を休めて、毎日眺めている可愛い小鳥達を、今日始めて見るように見惚れていた。参詣人はチラホラその前を通り過ぎた。
 すべてが長閑《のどか》だった。
 玩具店を張る老婦も、神前に額《ぬかず》く商人風の男も、袋物店の娘に流目《ながしめ》を投げてゆく若者も、すべて神の使わしめの鳩のように、何の悩みもなく、無心の中に春の恵みを祝福しているのだった。彼等に取ってはこの一刹那に於てすら、神に逆らって罪を犯すものがあり、その罪人を血眼になって追い廻している警吏のある事などは考えの外であった。
 事実、この時に当って神楽坂署の刑事達は続々この平和境に押出して来るのだった。
 或者はポッと出の田舎者のような風をしていた。或者は角帽を被って大学生を装うていた。或者は半纏を羽織って生《は》え抜きの職人のような服装をしていた。彼等は素知らぬ顔で、表面この静寂な空気に巧に調和を取りながら、外の参詣人の間に交って、それ/″\油断なく定められた部署を警戒していたのだった。
 中にも軽快な洋服を着て青年紳士然としていた石子刑事の心労は一通りでなかった。何故なら彼は今日捕縛すべき怪人支倉の顔を知っている唯一の人間だったからである。尤も支倉の持徴のある容貌は十分刑事達の頭に這入ってはいるけれども、彼もさるものどんな変相をしているかも知れぬ。支倉は枯薄《かれすゝき》の音にも油断なく身構えると云う男であるから、もし少しでも怪しいと感じたら、逸早く逃げ出すに違いない。それに今日は殊更に浅田を連れて来ていない、と云うのは彼から何か合図でもされてはと云う懸念からであるが、それだけに浅田の姿が見えない事は支倉に疑念を起させ易い。それにもし彼が石子の姿でも認めれば大変である。彼が先に石子の姿を見出すか、石子の方で先に彼を見出すかそれで殆ど勝負は極るのである。尤も大勢の刑事達が網を張っているから、支倉の方でよし先に見つけて逃げ出しても、容易には逃げおおせまいが、それは第二として石子はどうしても第一番に彼を見出さねばならないのだ。支倉の秘密を発く端緒を握ったのも彼である。最初に支倉を逃がしたのも彼である。それ以来の日夜の苦心焦慮は実に惨憺たるものであった。今日逃がしてなるものか。石子刑事は全身の血を湧き立たせながら、定められた部署のない自由な身体をあちこちと歩き廻らせていた。

 午前十時は刻々に近づいて来た。
 いつの間にか露店の数が増えて参詣人の人々も次第に多くなり、境内は朝の静寂から漸く昼間の喧噪へと展開して行くようだった。
 今まで一塊になって日向ぼっこをしていた子供や子守り女の群はもうそんな悠暢な事はしていられないと云う風にキョト/\と歩き廻り始めるのだった。
 石子刑事は油断なくこんな光景を睨み廻していたが、何を思いついたか足を早めて鳥居の外へ急いだ。と、その辺にしゃがんでいた見るから田舎臭い、真黒な日に焼けた中年の男が、脂だらけの煙管をポンとはたいて、腰に差した薄汚い煙草入にスポリと収めると、ヒョロ/\と立上って、石子の前に歩み出でヒョイと頭を下げて、
「鳥渡ものをお尋ね申しますだが」
 と、云ったが、直ぐ低声《こゞえ》になって、
「どうした、来たのかい」
 と口早に聞いた。
「いや、未だ」
 石子も低声で鋭く答えた。
「どうして外へ行くのだ」
 彼は重ねて聞いた。
 この田舎爺然としている男は田沼と云う刑事で、柔道三段と云う署内切っての強の者で、今日は特に選抜されて出て来たので、スワと云えば直ぐ飛び出して腕力を奮おうと云うのである。
「実はね」
 石子は答えた。
「今ふと思いついたのだが、支倉の奴はとても喰えない奴だからこゝの境内までは来るまいかと思われるのだ、奴はきっと八幡様の手前の方にそっと見張っていて、浅田の姿を見つけようとするだろうと思うのだ。それだから、こっちはその裏を行って、電車通りに待構えていて、きゃつが電車から降りようと車掌台に姿を現わした時に逸早く見つけようと云うのだよ」
「成程、それは有効な方法だ」
 田沼はうなずいた。
「けれども第一きっと電車で来るとは極ってはいないし、もし向うに先に感づかれると困るよ」
「そこはどうせ運次第だよ。第一そんな事を云えばきゃつが今日こゝへ来るかどうかさえ疑わしいんだからね。僕だって一生懸命だから万に一つの仕損じはないと思うけれども、もし取逃がしたとしても十人もの人間で網を張っているのだから大丈夫さ。では、宜しく頼むよ」
 石子はそう云い棄てると、さっと電車通りの方へ出た。そっと時計を見ると十時に十五分前である。彼は轟く胸を押えて、停留場の少し前の電信柱の蔭に隠れて、前後に激しく揺れながら疾走して来る電車をきっと睨んだ。
 支倉がもし浅田の手紙を警察の罠ではないかと云うような懸念を持っていたら、彼も油断なく電車の中から外の様子を覗っているかも知れないが、疾走している電車の中からは外を観察すると云う事は困難であるし、それに混雑した昇降口から降りる時には、そう油断なく外へ気を配ると云う余裕がない。どうしてもそっと物蔭に隠れている者にすっかり身体を曝して終う。況んや支倉の方はそう云う用意がないとすると、どうしても覗っている石子刑事の方が勝を占める訳だ。石子刑事も又そこを計算に入れて、こうして柱の蔭から電車の乗降客を監視し出したのだが、さてやって見ると思った程楽な仕事ではない。後から後からと続いて来る満員電車の前後の出入口から一時に吐き出される人は可成数が多い。
 こゝはもう終点に近いので、乗る客が割合に少いのは混雑をいくらか減少はしていたけれども、その一人々々を見逃さないようにするのは一通《ひとゝおり》の骨折ではなかった。
 十時は刻々に近づいて来る。
 支倉の姿は未だ見えない。石子は次第に不安になって来た。

 十時に垂《なんな》んとしても支倉の姿が見えないので、石子刑事はいら/\して来た。
 彼は又もや形勢を察して巧に逃げたのだろうか。それとも外の方法で境内へ潜り込んだか。境内に這入れば同僚の刑事達が犇々《ひし/\》と網を張っているのだから、捕まるに違いないのだが、今だに境内から何の知らせも来ないのは、写真位で覚えている風体だから、
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