った屍体を小林貞と極める訳には行かぬ。それに一つ困った事には、鑑定の結果は十五、六の小娘にしては骨格が稍大きすぎると云う事だった。行方不明になっている女中は年相応の大きさで決して大柄の女ではなかったので、大き過ぎると云う事は、屍体を小林貞なりと断定するには不利な鑑定だったのである。それで残された唯一の手がかりとしては、死体の下敷となっていた為に、漸く痕跡を残した腰の辺の着衣の一部だけである。で、取敢ずボロ/\になった布片を高等工業学校に送って鑑定を乞うたのだった。其結果が今日分るので、石子刑事はそれを聞き取るべく学校に出かけて行くのだった。
 石子刑事に取っては浮沈の分れる時と云って好いのだった。染色科の教授の鑑定の如何によっては、掘り出した白骨は小林貞と確定する事が出来る。そうすれば只に三年前に行方不明になった女の死体を尋ね出したと云うだけではなく、進んで支倉の恐ろしい犯罪を立証する事が出来るかも知れぬ。が、然しもし鑑定の結果が予期に反したとすると、第一に数日間全精力を傾倒して、必死の思いでかゝった仕事が根本から水泡に帰して終う。のみならず、署長以下同僚に対して合わせる顔がない、そして女中失踪事件は再び迷宮に這入り、支倉を糺弾する事が出来なくなる。支倉を取逃がしてから一日として安き思いのなかった石子刑事は、今日の鑑定の結果がひどく気に懸《かゝ》るので、すっかり心を暗くして重い足を引摺って、あれこれと思い悩みながら歩んで行くのだった。
 彼は漸く高等工業学校の門に辿りついた。彼は門衛に来意を告げて、大川に流れ込む細い溝に沿って半町ばかりの石畳の路を歩いて行った。校舎のある辺りはもう直ぐ大川で、満々と水を湛えて流れる水は岸をヒタ/\と打っていた。三月の暖かい陽は不規則な波紋を画がく波頭をキラ/\照していた。どこからともなく一銭蒸気のカタ/\と云う音が響いていた。
 染色科の若い教授は学者らしい重厚な顔に、微笑を堪えながら石子刑事を迎えた。
「何分古いものでしてね」
 教授はポツリ/\話出した。
「確定的にハッキリ申上げる事は出来ませんがね、黒ぽい方は確に繻子の帯地です。それからもう一つの方は」
 若い教授は鳥渡言葉を切った。固唾を呑んで聞いていた石子は、はっと面を上げて一言一句も聞き落とすまいと身構えた。こゝからは大川が一眼に見渡せて、折柄満々たる風を孕んだ帆船が一艘悠々と上って行くのが見えた。言葉を切って鳥渡窓外の景色を眺めていた教授は、ふと緊張した石子に眼を落とすと周章《あわて》て言葉をついだ。
「もう一つの方はメリンスの地に模様があります。その模様は大きな花、多分牡丹かと思えるものゝ一部で、色はすっかり褪せていますが、確に元は赤色だったのですよ」
 聞いているうちに石子の暗い心は春光に浴した蕾のように次第にほぐれて来た。彼の顔には押えても押え切れない喜びの微笑が浮び出て来るのだった。

「有難うございました」
 思い通りの結果を得た石子刑事は、嬉しそうにして若い教授に頭を下げながら、
「お蔭で貴重な手懸りが得られました」
「そうですか、それは結構でした」
 若い教授は鷹揚にお辞儀をした。
 校門を出た石子刑事の足取は揚々としていた。見込をつけた通り発掘した屍体は九分通り小林貞の屍体に相違なかった。自殺か他殺か其点は未だはっきりしないが、屍体の上った場所と云い、前後の事情から押して、先ず支倉の所為と見て好い。この上は出来るだけ証拠を集めて支倉を自白させる許りだ。
 それにしても支倉はどこにいるのだろうか。この考えに突当ると石子刑事の晴れやかだった顔は俄に暗くなった。
 石子刑事はふと又暗い気持になったが、出来るだけ気を変えて、滅入る心を今日の成功に励ましながら、この吉報を署長以下に報告すべく神楽坂署へ急いだ。
 石子刑事に代って支倉追跡の任に当って、写真師浅田の家に泊り込んだ渡辺刑事の苦心も一通りのものではなかった。彼は一歩も家の外へ出る事は出来なかった。三食とも近所の仕出し屋から運ばせて、夜でも昼でも油断なく眼を光らしているのだった。すべての郵便物は配達夫から直接に受取り、怪しいと思われるものは浅田に命じて開封させた。浅田の出す手紙にも一々注意深く気を配ばらねばならなかった。彼は敵地にいる斥候兵のように全身を眼と耳とにして、一分たりとも気を許す事が出来なかったのである。
 もし今度しくじって再び浅田と支倉との間に文通でもさせたら、それこそ一大事で、二人とも尋常一様の者でない。驚くべく好智に長けた者であるから、そうなると再び何かの手懸りを掴む事は容易な事ではないのだ。浅田は表面恐れ入ったように見せかけてはいるが、隙を見せたら、どんな事を企てるか分らないのである。
 こうした渡辺刑事の並々ならぬ苦心は三日三晩の間空しく続いた。一口に三日三晩と云うけれども、こんな苦しい緊張を三日三晩も続けると云う事は尋常な者では出来る事ではない。流石の渡辺刑事もゲッソリと身体が痩せて、針の落ちた音にさえ飛上る程、神経が鋭く尖った。
 支倉は早くも様子を悟ったのだろうか。浅田が何か気のつかぬ方法で知らしたのではなかろうか。支倉の嘲笑状は相変らず毎日のように警察に飛び込んで来る所を見ると、高飛をしたとは思われない。尤も一度愈※[#二の字点、1−2−22]高飛をするらしい手紙を寄越した事があったので、各停車場に手配をした事があったが、それは全く警察を愚弄する為であった事が間もなく判明した。彼には高飛をするような気はないらしいのである。
 彼は只巧に逃げ廻りながら、警察を馬鹿にする事に無限の興味を持っているらしい。無論自分の犯した罪が続々暴露して、恐ろしい罪名で追跡されている事などは思っていないらしい。もし彼がそんな事に気づいていれば、毎日のように警察に愚弄状を送ったり、大胆不敵にも北紺屋署に出頭して市電対手に損害賠償を要求しようとしたりしないで、一時も早く高飛すべきである。彼は一体何の目的で警察を煙に巻きながら逃げ廻っているのだろうか。そうした大胆な行為が自分の過去を疑われる種になる事などは少しも考えていないのだろうか。
 それからそれへと続出する疑問はどう解き様もなかった。只渡辺刑事の現実の問題としては三日三晩の間、支倉からは杳として何の便りも聞く事が出来ないと云う事だった。
 渡辺刑事はもうがっかりして終《しま》った。

 渡辺刑事が浅田の家に泊り込んでから四日目の朝、引続く空しい努力にヘト/\になっている時に、配達夫は一声郵便と叫んで、数通の手紙を投げ込んで行った。
 配達夫の近づく足音にもう次の間まで出て待構えていた渡辺刑事は素早く飛出して拾い上げたが、そのうちに上封に見覚えのある太い字がいきなり眼についたので、ハッと思いながら裏を返すと、松下一郎と云う四字が電光のように彼の眼を打った。彼は思わずその手紙を握りしめて、神に感謝したのだった。
 渡辺刑事に呼ばれて、眼前で開封すべく松下一郎の手紙を差出された浅田は、心持蒼い顔をして、手をブル/\顫わしながら封を切った。
 手紙の文面は浅田に指輪と時計を持って来て貰いたいと云うのだった。持って行く場所はどことも指定してなかった。
「場所が書いてないね」
 渡辺刑事は射るような眼で浅田を見ながら云った。
「書いてありません」
 浅田は手紙を渡辺の前に差出しながら答えた。
「どこか打合《うちあわ》してあるんだろう」
「いゝえそんな事はありません」
 浅田は首を振った。
「じゃ、どこへ持って行くのか分らないじゃないか。君、今更嘘を云ったって仕方がないじゃないか、ほんとうの事を云って呉れ給え」
「全く打合せなんかしてはありません」
「ではどうして届けるのだい」
「その都度打合せをしているのです」
「打合せると云うと、支倉のいる所が分ってる訳だね」
「いゝえ、そうじゃないのです」
 浅田はあわてゝ云った。
「じゃ、どうして打合すのだね」
「この手紙に消印のしてある郵便局へ留置《とめお》きでこっちから手紙をやるのです」
「えっ」
 渡辺刑事は彼等の奸智に長けた事と用心深い事にすっかり感心して終《しま》った。浅田は捨鉢になったように黙りこんだ。
「ふん」
 渡辺刑事はじっと腕を組んで考えた。支倉が、留置郵便を受取りに来る所を押えようか、いやいや、何事にも用心深い彼が果して自身で受取りに来るかどうか疑問である。それに郵便局のある所は可成繁華な所で、大路小路が入り乱れているから、万一押え損ねると中々面倒になる。寧ろどこか閑静な捕まえ易い所に誘《おび》き出して押えるのが好い。
 渡辺刑事はきっと顔を上げた。
「君、直ぐに返辞を書いて呉れ給え、文句はこう云うのだ。依頼の品は明後日午前十時、両国の坂本公園へ持参する。都合が悪かったら直ぐお知らせを乞う。好いかい」
「承知しました」
 浅田は素直に渡辺刑事の面前で云われるまゝに支倉宛の手紙を認めた。渡辺は仔細に手紙を改めて、どこにも支倉に疑念をさしはさませる余地のないのを充分に確めた後に封筒に入れて、自ら封をして上書を浅田に書かせ、浅田を同道させてポストまで行って投函した。そうして厳重に浅田を監視して、追手紙《おいてがみ》を出して裏を掻かれる事を防いだ。
 その日の午後訪ねて来た同僚の刑事に渡辺は委細を話して、明後日は充分抜りなく手配をして貰う事を頼んだ。我事なれりと喜んだ渡辺刑事は油断なく浅田の行動を覗いながら、その日の来るのを一日千秋の思いで待ち焦れていた。
 流石不敵の支倉も今は袋の鼠同様になった。水も洩らさぬ警察の網の手は次第に狭められて彼の縛につく日も遠からぬ事になった。
 怪人支倉は果して渡辺刑事のかけた罠に易々と捕えられるであろうか。

 待ちに待った日は来た。今日こそは午前十時に坂本公園に待ち構えている刑事達によって、支倉は逮捕せられるのである。万一に備える為に未だ浅田方の警戒をゆるめないで、油断なく眼を配っていた渡辺刑事は今朝から何回となく時計を眺めながら、十時の近づくのをソワ/\として待っていた。
 時計の針が九時少し過ぎた頃、一通の郵便が拠り込まれた。渡辺刑事が急いで取上げて見ると、それは肉太に松下一郎と書かれた支倉からの手紙だった。
 ドキッとした渡辺は浅田を呼ぶ暇もなく無意識に封を切って、二、三行を一時に読み下すような勢いで文面を見た。
 手紙には依頼の品を日本橋の坂本にどうとかすると云う風に書いてあったが、坂本と云う人は知らない人で不安心だから、浅田自身で明後日午前十時に深川八幡の境内に持って来て貰いたいと書いてあった。
 渡辺刑事は茫然として手紙を落として終った。
 何と云う抜目のない用心深い男だろう! 彼は渡辺刑事があれ程苦心して疑念を起させないように浅田に書かした手紙さえも、頭から信用して終う事をしなかったのだ。両国の坂本公園のような所へ誘き出そうとした事に不安を感じたと云えば感じたかも知れないが、要するに彼は念には念を入れると云う用心から、もう一度浅田に手紙を送ったのだ。もし手紙が浅田の偽筆だったり、又は強制されて書いたものだったりしたら、この二度目の手紙で真相が分るかも知れないのだ。それにしても両国の坂本公園を態《わざ》と読み違えた風をして坂本と云う人は知らないなどと、空々しい事を書いて来るとは何と奸智に長けた奴だろう。
 渡辺刑事は目頭が熱くなる程憤慨した。
 が、ふと気がつくと彼は愕然とした。これ程の奴だから、こう云う断りの手紙を出して置いて、そっと坂本公園の様子を見に来るかも知れない。彼自身来ないまでも誰かに頼んで公園の様子を探るかも知れない。もし彼に公園の物々しい警戒を鳥渡でも悟られたら一大事である。彼はもう二度と浅田の手紙を信用しないであろう。そうなるといつ彼が捕えられるか見当がつかぬ事になる。一時も早く公園の警戒を解かねばならぬ。渡辺刑事はいら/\した。けれども彼自身が迂闊に出かける訳に行かない。留守に又浅田がどんな手段を取るやら分らぬ。あゝ、どうしたら好いだろう。約束の十時は刻々に近づいて来る。
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