らない事からでしてね」
石子は語り出した。
「これが小説だと、凄い殺人の場面か、茫然とするような神秘的な場面か、それとも華やかな舞踏会の場面からでも始まるのですが、事実談はそうは行きませんよ」
逃亡
大正六年一月末、午後二時の太陽は静に大東京の隅々までを照していた。松飾などは夙《とう》に取退《とりの》けられて、人々は沈滞した二月を遊び疲れた後の重い心で懶《ものう》げに迎えようとしていたが、それでも未だ都大路には正月気分の抜け切らない人達が、折柄の小春|日和《びより》に誘われて、チラホラ浮れ歩いていた。それらの人を見下しながら、石子刑事は渡辺刑事と並んで目黒行の電車に腰を掛けていた。電車はけたゝましい音を立てながら疾駆していた。
「ねえ、渡辺君」
石子刑事は囁いた。
「之がもう少し大事件だと張合があるが、窃盗位じゃ詰まらないねえ」
「うん」
眼を瞑《つぶ》ってウト/\していた渡辺刑事は、突然に話しかけられたので好い加減な生返辞《なまへんじ》をした。
石子刑事は鳥渡《ちょっと》不機嫌になった。彼は詰らない窃盗事件だと云ったけれども、内心では得意だったので
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