った。
 玩具店を張る老婦も、神前に額《ぬかず》く商人風の男も、袋物店の娘に流目《ながしめ》を投げてゆく若者も、すべて神の使わしめの鳩のように、何の悩みもなく、無心の中に春の恵みを祝福しているのだった。彼等に取ってはこの一刹那に於てすら、神に逆らって罪を犯すものがあり、その罪人を血眼になって追い廻している警吏のある事などは考えの外であった。
 事実、この時に当って神楽坂署の刑事達は続々この平和境に押出して来るのだった。
 或者はポッと出の田舎者のような風をしていた。或者は角帽を被って大学生を装うていた。或者は半纏を羽織って生《は》え抜きの職人のような服装をしていた。彼等は素知らぬ顔で、表面この静寂な空気に巧に調和を取りながら、外の参詣人の間に交って、それ/″\油断なく定められた部署を警戒していたのだった。
 中にも軽快な洋服を着て青年紳士然としていた石子刑事の心労は一通りでなかった。何故なら彼は今日捕縛すべき怪人支倉の顔を知っている唯一の人間だったからである。尤も支倉の持徴のある容貌は十分刑事達の頭に這入ってはいるけれども、彼もさるものどんな変相をしているかも知れぬ。支倉は枯薄《かれす
前へ 次へ
全430ページ中176ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング