れますぜ」
「本当かい」
「本当ですとも、松下一郎って男名前で来るんですけれども、返辞はきっと先生自身でポストへ投げ込まれるのですよ。外の手紙はみんな私に云いつけて出させるのですけれども、その返辞だけは御自身でお出しになるのですよ」
「畜生!」
お篠は呶鳴った。
「じゃ矢張り私を誑《だま》しているんだな」
折柄表通りに浅田の姿が見えたので、二人はあわてゝ下に降りた。
浅田は家の中に這入ると、そのまゝ無言で二階へトン/\と上った。
彼は注意深く部屋を一通り見廻した後、椅子にどっかと腰を下して、あーっと欠伸を一つしたが、ふと机の上を見て、
「おや」
と呟いた。
机の上はちゃんと自分が整頓して置いた通り、何一つ位置を変えないで、そのまゝにはなっているが、所謂第六感と云うか、何となく何者かゞ手を触れたような気がするのだ。
「はてね」
腕組をしたまゝ、鋭い眼で机の上を睨んでいたが、ふと吸取紙に眼がついた。気の故《せい》だか少し位置が、捩《ねじ》れているようだ。
彼は吸取紙を取上げて、頭の上の電燈に照して見た。
「しまった」
彼は軽く呟いて、頭を上げると唇を噛んで、じっと遠方を睨みながら、考え込んだ。
やがて彼は再び仔細に吸取紙を調べ出した。彼の口辺には微笑が現われて来た。彼は何を思ったか一枚の封筒を取出して、吸取紙と並べて机の上に置いた。それからペンを取って、尚も考え考え封筒の上にペンを動かした。
「本所区菊川町二十三番地大内写真館、うん之でよし」
意地の悪そうな笑みを洩らして書上った封筒を眺めていたが、やがて吸取紙で押取ってピリピリと二つに裂くと、クルクルと丸めてポンと足許の屑籠へ拠り込んだ。
彼は呼鈴を押した。
ミシ/\と岸本が上って来た。
「先生、何か御用ですか」
「うん、ちょっと現像をやろうと思うのだが、薬品は揃っているだろうな」
「はい、揃っています」
「それじゃ、君は少しこの辺を片付けて置いて呉れ給え」
「はっ、承知しました」
浅田は暗室に這入ると、直ぐに現像を初めようとはせず、光線を導き入れる赤色硝子の嵌《はま》った小窓から、そっと部屋の様子を覗っていた。
岸本はせっせと部屋を掃除していた。そのうちにふと屑籠に気がつくと、彼は屈んで中から丸められた封筒を取出した。彼ははっとしたようだったが、やがてジロッと暗室の方へ眼をやって、背中を小窓の方へ向けて、机の上を整頓するような風をして、そろ/\と封筒を拡げた。
岸本の相好はみる/\崩れた。彼は嬉しさを隠すことが出来ないで子供のように大きく眼を瞶《みは》った。
やがて封筒を再びクル/\と丸めると、屑籠の中へ押込んで、何喰わぬ顔で又掃除を始めた。
暗室の中では浅田はバットを揺り動かしながら考えていた。
「ふゝん、やっぱりきゃつは廻し者だ。油断のならない事だ。だがきゃつ、素人で幸いだて」
やがて現像を終えて、定着バットの中へ乾板を入れると、浅田はのそ/\暗室から出た。
岸本は掃除をすませて、窓際の椅子にかけてポカンとしていた。
「掃除が出来たら下へ行って好いよ」
浅田は云った。
「はい」
岸本の姿が見えなくなると、浅田は机の前にどっかと腰を下して呟いた。
「きゃつから刑事の耳に這入るのが、明日中として、刑事の無駄足を踏むのが明後日か、ふん、二、三日は余裕がある訳だな」
放火事件
「な、何でえ。何んだって人に突当りゃがった」
この寒空に薄汚い半纏一枚の赤ら顔のでっぷりした労働者風の男が、継の当った股引を穿《は》いた足許もよろ/\と、先ず百円見当の月給取らしい小柄な洋服男の上衣を掴んで呶鳴った。
「冗談云うな、お前の方から突当ったんじゃないか」
洋服男は虚勢を張って呶鳴り返した。然し眼は迷惑そうにキョト/\していた。
小川町から駿河台下に通う電車通り、空はドンヨリとして、どちらかと云うと雪催いの鬱陶しさだったが、今宵は十五日で職人の休日でもあれば、五十稲荷の縁日でもあり、割合に人通りがあった。
所がヒョロ/\と右の酔っ払い、対手欲しげに俗に云う千鳥足でよろめいていたのを、通行人は眉をひそめて避けて通ったが、出会頭にぶつかったのが、洋服男の不運だった。
「な、何だと、俺の方から突当ったと。人を馬鹿にするねえ。俺は酔っているんじゃねえぞ」
尚も管を巻くのを、洋服男は堪えかねて上衣を掴んだ手を振りもぎると、酔払いはよろ/\とよろめいて危く転びかけたが、やっと踏み止《とゞ》まると、さあ承知しない。
「おや、味な真似をしやがったな。こん畜生! どうするか見やがれ」
彼は洋服男に武者振りついた。
周囲《まわり》はいつか見物の山だった。が誰一人手を出そうと云う人はない。顔をしかめて苦々しげに見ている人もあれば、ニヤ/
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