めた程である。
 或人は疑った、彼は既に狂せるのではないかと。彼が一旦はふり落ちる涙と共に自白した事を翻えしてから後は、遂に自ら深く罪を犯さゞるものと信じて、偏《ひとえ》に周囲の強うる所として憤り悲しんだ点は、一種の強迫観念に基くものかも知れぬ。然し、彼の書信或いは上願書の類を見ると、彼は決して狂気とは思えない。却々《なか/\》計画的な所があり、理路も時に辻棲の合わない事はあるが、多くは整然として乱れていない。庄司氏を罵って姦謀(官房)主事と称《とな》えたなどはその一つの現われで、官憲も狂人としては扱わなかった所以である。
 さて、大正十三年四月二日は公判準備調べに止《とゞ》まり、ほんの小手調べに過ぎなかったが、この時能勢弁護士は、
「被告を検挙した責任者であり、且つ被告と神戸との間の往復文書並びに神戸の提出した書状の行方について知悉《ちしつ》している当時の神楽坂警察署長庄司利喜太郎を喚問して、書状の件並びに被告の自白に至った径路につき御訊問が願いたい」
 と申請した。
 庄司氏を法廷に呼び出して思う存分聞いて見たいと云うのが、支倉年来の望みで、能勢弁護士も亦策戦上之を必要と認めて、従来機会ある毎に彼の喚問を申請したのであるが、庄司氏は署長より後に警視庁に入り、官房主事となり、転じて警務部長の要職を占め、多忙を極めていたので、そう云う事が理由になったのか、それとも実際必要を認めなかったのか、いつも極って却下せられるのだった。が、今は故あって庄司氏は警務部長を辞し野にあったので、機会は好しと能勢氏は同氏の喚問を求めたのだった。四月七日に至って左の如き決定書が下附せられた。
     決定
[#地から4字上げ]支倉 喜平
[#ここから2字下げ]
 右に対する窃盗放火詐欺強姦致傷殺人被告事件に付き大正十三年四月二日公判準備手続に於て被告人及其弁護人より申請したる証拠調べに対し、検事の意見を聞き左の如く決定す。
 右申請中庄司利喜太郎、戸塚新蔵を証人として訊問し其余は却下す。
  大正十三年四月七日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から6字上げ]裁判長以下署名捺印
 支倉はこの決定を受取ると文字通り雀躍《こおどり》して喜んだ。恨み重なる庄司署長、今まではたゞ呪いの手紙通計七十五本で間接射撃をするばかりだったが、今度は彼を眼のあたりに迎えて、思う存分望みを遂げる事が出来る、彼はこう考えたのだった。
 彼は庄司署長の出頭する日を一日千秋の思いで待ち受けたのだったが、それが彼の余命を縮める基になろうとは、夢にも知らなかったのだ。
 かくて五月十四日に第一回公判が開かれたが、この時既に庄司、神戸両氏は証人として出廷していたが、支倉は冒頭に何を考えたか不貞腐《ふてくさ》れて終った。
 裁判記録によると彼は裁判長の訊問に答えなかったのである。
「裁判長は被告人に対し氏名年齢職業住所本籍出生地を問いたるも被告人は黙して答えざるを以て重ねて問いたるも尚答弁せず」
 こゝで裁判長の心証を悪くしてはと能勢弁護人は心配したので、一声高く呼んだ。
「裁判長、被告に一言述べる事をお許し下さい」

 支倉が黙して答えないので、能勢氏は一大事と裁判長の許可を得て、彼に忠告を試みた。
「能勢弁護人は裁判長の許可を得て、被告人に裁判長の訊問に答え弁明する所あらば弁明を為す方が可ならんと忠告したるに、被告人は答弁せざるに非ざるも、本日の公判に間に合うべく書類を熟読し来たらざるにより延期を乞うべく出廷したるなり。されど記憶を喚起し成るべく答弁する旨申立たり」
 之だけの手数を重ねて裁判長は漸く訊問を始める事が出来た。
[#ここから2字下げ]
問 姓名は如何    答 支倉 喜平
  年齢は        四十三年
  職業は        聖書販売業
  生地は        山形県置賜郡
[#ここで字下げ終わり]
 筆者は何故こんな分り切った事をこゝに書くか。読者諸君よ。彼の年齢の項を見て如何《いかん》の感がある。彼が抑※[#二の字点、1−2−22]《そも/\》神楽坂署に捕えられ、次で起訴せられ予審に有罪と決し、第一回の公判に立った時彼は三十六年と答えているではないか。今こゝに四十三と答えているのを見ると、人生の最も実のあるべき三十六より四十三までの長の年月を未決監に送った彼の境涯に対して一掬同情の涙なき能わぬ。もとよりこの足掛け八年、満七年余の牢獄生活は云わば彼が故意に延ばしたのであって、既に第一審に於て死刑に決定したのであるから、順当に行けば彼の生命は数年前に断たれた事であろう。だから彼は好んでその苦痛を延ばしたのであると云う議論もあるかも知れぬ。然しその長い間彼が一途に死刑より逃れよう、後には一度出獄がしたいと云う果敢ない望みから闇黒な牢獄の中に座して、あらゆる痛
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