いる身に法律上の悪はあり得ない。彼の悪は恐ろしい精神上の悪で、これを加えられた人は非常な苦悩を受ける。彼の悪は宗教でさえ救い得ない悪であった。
保釈願
支倉は一身を悪魔に捧げ、智嚢を傾けて、一刻たりとも生命を延ばし、恨み重なる周囲の者に一寸でも多く傷をつけてやろうと、あらゆる努力を試みたが、中にも最も執拗に希望したのは、あわれ、今生の思い出に今一度娑婆の様子を一眼たりとも見、自由な明るい空気を一息たりとも吸い、あわ好くば恨めしき者共に一泡吹かせたいと云う果敢《はかな》い望みだった。彼は元より死刑を逃れる道のない事を覚悟していた。そこで彼の考えたのは保釈の一事あるのみで、一方では公判を出来るだけ延ばし、保釈の目的を貫くために必死のみじめな努力をしたのである。彼は幾十通の保釈願いを出した事であろうか。而もいつも極って、不許可と云う情ない決定を下されたのだった。
彼の最初に出した保釈願は大正十一年十月である。
「一、私は一審で誤判されとるような事、夢さら/\やっていません。やっていないと云う事は庄司利喜太郎氏が後で裁判長の家に持参して皆出すと約しとる元高輪署の勝尾警部の手に成った三調書及保険会社の其当時の書類、次に自分は大正六年二月深川区古石場荒巻方二階に置いてあった孤児院建設趣意書、同絵葉書、尾島と自分とが相往復した手紙並に自分が浅田と松下一郎名義にて相往復した手紙、次に庄司は神戸氏と母校を同じゅうしとると云う事から同人を欺き、同人から取上げとる山々の書類等さえ裁判所に現われますれば事明細に分ります。よく明白にお分りいたゞけます。今になって庄司氏も出す訳に行くまい。自分の一身上に関する事ですから、そこで私が出獄さして頂けば、弁護士初め勝尾警部、神戸牧師、佐藤司法主任、庄司署長、八田警視総監等に会うて甘《うま》く局が結べるようにさせて頂きます。私は此処に繋がれて居りました事では誰も傷つかんように甘くやらせて頂こうと思っても、それが出来ません。過般三崎上席検事殿は保釈願を出して見よと仰せられました。昨日能勢弁護士も誤判にせよ、死の宣告を受けとる者が保釈が許可になったと云う前例がない。又官房主事があらゆる書類を隠して偽証させ、罪なき者を無実に陥れたと云う事も之までにない事だ。そこで都合よく運ぶかも知れん。兎に角三崎検事が初めそう言われたなら、保釈願を出して見るが好い。出して許可になって出て、甘く局が結べるようだったらこれに勝さる事はない。君ア出れば威厳にも威信にも関らず、又君も満足の行く訳だ。そこで兎に角出して見よと言う事でありました。私ア出してさえいたゞければみなに逢うて甘く局が結べるようにさせていたゞきます。私が一日も早く裁判所の方に出させて貰いたいと要求願っとる前述の書類は、死んだ大島警部補か根岸刑事の書類中に底深く秘し蔵してある筈です。秘し蔵してあったものであると云う事は、私と庄司と八田総監とが三人寄って、文珠の智恵、甘く折合をつけ、裁判長の方に出させていたゞきます。出していたゞけば誰の名誉にも関わらぬよう、甘く運ばせていたゞきます。出していたゞくについては裁判所の御都合通り保証人保証金其他なんでも仰有る通りにさせていたゞき、毫も違背するような事はいたしません。御呼出の節は何時でも又即時出頭いたします。就いては何卒々々保釈御許可いたゞけますよう、お願い申上げます」
最初の保釈願は右のように慇懃を極めたと共に捕捉しようのないものだったが、之が殆ど即日不許可になると、支倉は続いて裁判長に請願を試みた。
「発信不許可の件其他重要の件につき一度御面謁を賜り御伺い御願いさせていたゞき度、恐入ります、一度至急に御呼出の上、御会いいたゞけますよう、伏而《ふして》懇願《こんがん》いたします」
「閣下に至急御目にかゝり、いろ/\陳述させていたゞき、且つ閣下の御意見のおありになる所を詳細御聞かせ頂きたいのであります、就ては恐入った御願いですが、どうぞ至急に御会いいたゞけますよう、此処切に伏而懇願致します」
二度までも切なる嘆願書を受取って裁判長も弱った。支倉が何事を訴えようとしていたか、それは想像に難くない所で、裁判長にも予《あらかじ》め察しはついていた。それに支倉は公式の法廷では狂態を尽して審問に答えていないのだから、私《ひそ》かに、裁判長に訴えたいと云うのは筋違いである。裁判長は然し流石に人間である。彼の哀れな心を押し計って面晤《めんご》を許したが、もとより彼の望みは叶えるべくもなかった。
かくて彼支倉は公判のある度に法廷に怒号咆哮し、恨み重なる人々へ、草を分け根を掘って、それからそれへと脅迫の手紙を送りながら、未曾有の東都大震災にも幸か不幸か身を完うし、大正十二年も秋とはなったが、彼は再び根気よくも保釈願
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