た事件は読者諸君の記憶に尚新なる所だろう。あの山田と云う男が庄司利喜太郎とやはり高等学校を同じゅうした、ずっと後進なのだ。彼は後に身を誤ったが、世話好きな豪傑肌の男だったと見え、よく友人の尻拭などをしてやったもので、或る時友人の一人が酔った余り乱暴を働いて警察に留置され、事が面倒になったので、山田は母校の先輩である当時警視庁の官房主事をしていた庄司氏を訪ねて、援助を乞うた。庄司氏も事柄が高が酔興の失敗位だったので、その際の警察の署長に話してやって、学生を放免させた。
その後暫くしてから山田は又々真蒼な顔をして、警視庁を訪ね庄司主事に面会を求め、友人が人殺しをして発覚しそうになっている。ついては彼を満洲に逃がしたいから見逃して呉れと必死になって頼み込んだ。
無論庄司氏は首を振った。
「馬鹿な」
後に庄司氏は人に語った。
「酔っ払いの放免と人殺しとを一緒にするちゅう奴があるものか、ハヽヽヽ」
神戸牧師にしてもその通りだろうと思われる。人を殺人罪に陥れるのと、母校を同じゅうしただけの友人を庇護するのとは同日に論じられないではないか。
裁判長の、被告は暴行を加えた事を申し述べたかどうかと云う問に対して、いずれも息を凝らして返辞を待ったが、神戸牧師はやおら口を切ってきっぱりと云った。
「その事は申上げられません」
意外な返事である。満廷どよめき渡った。
公判廷に於て証人が証言を堂々と拒絶するとは未だ聞かざる所である。
神戸牧師の言葉に意外の感を起した宮木裁判長は直ちに荘重な声を一段大きくして云った。
「それはどう云う理由であるか」
神戸牧師は臆する色なく答えた。
「支倉は私を牧師と見込んで、彼の秘密を打明けたのです。即ち彼は自白したのではなく、懺悔をしたのです。神に対して告白する所を私を仲介者に置いたのに過ぎないのです。私は神に向って懺悔せられた人の罪を、軽々しく公の席で申し述べる事は出来ませぬ」
「然らば証人は」
裁判長は牧師の道理ある言葉に少し難渋の色を見せながら、
「法廷に於ける証言を拒絶する意志であるか」
「私は神の僕《しもべ》であると共に」
牧師は答えた。
「法律の重んずべき事は能く存じて居ります。もし法の命ずる所として強制せられるならば致し方ありませぬ」
「さようか」
裁判長は一寸首を捻《ひね》ったが、直に休憩を宣して、陪席判事に目配《めくば》せすると大股にゆっくり歩きながら退廷した。
暫くすると、合議が終ったと見え、裁判長は矢張り前と同じように大股にゆっくりと歩んで現われて来た。
彼は着席すると直に証人を呼びかけた。
「改めてもう一度聞くが、証人は果して法律上の其の証言を拒む意志であるか」
「いゝえ」
牧師は答えた。
「必ずしもそうではありませぬ」
「然らば裁判長は職権を以て、証人が支倉より聞知した告白を、当法廷に於て陳述する事を要求する」
宮木判事はきっと宣告した。
神戸牧師はきっと唇を噛んで顔色を蒼白にして暫く黙っていたが、漸く決心したものと見えあきらめたように云った。
「それでは致方ありませぬ。支倉は貞を暴力を以て犯した事を明白に私の前で告白いたしました」
「うむ」
裁判長は意を得たりとうなずきながら、
「それはどう云う告白だったか」
「支倉は彼の二階で妻の不在中、貞に按摩をさせているうちに情慾を起し、遂に貞の意に反して犯したる旨申しました。そうして小林に対して謝罪をする事を承知したのです」
神戸牧師は額に冷たい汗を滲《にじ》ませて、苦悶の表情を浮べながらこう答えたが、又元のようにむっつり黙って終った。
神戸牧師は支倉が自分を信じて告白した所の、彼の告白を、無慙にも公判廷で申述べねばならなくなった事を余程心苦しく思ったに相違ない。彼は数年の後当時を回顧して、こう云っている。
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「殊に予は予の立脚地として、社会公衆の前に訴うべき一事があるのである。それは裁判法廷に於て、牧師の前に於てなしたる被告の精神上の告白を、証人として其まゝ裁判所が其内容を強要し得るや否やの点である。現に予は第一審に於て、当時の裁判長の前に於て、一旦此証言を拒絶したのであった。然るに、裁判所は合議の結果其権威を以て予に証言を強要し、以って当時被告支倉の姦淫に関する告白を其まゝ法廷の証言として仔細を述べしめたのであった。これ牧師たる予の今に至るまで承服し得ない所である」
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右の一文と当時法廷に於ける言葉で分る通り、神戸牧師は強き性格の人である。彼の証言拒否は決して支倉を庇護する為ではなく、牧師としての良心の現われの一つであった。尤も証言拒否が成功すれば、支倉としては秘密に触れられなくてもすむのであるから、大いに利益したに相違ない。牧師も亦積極的に彼を庇護する積り
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