御贔屓《ごひいき》になっていますから止むを得ずお引受したのです」
 彼の答えは澱《よど》みがなかった。石子はそっと渡辺の顔を見た。
 確に支倉に関係ある男と睨んで深夜に取押えた怪漢が、思いがけなく附近の写真館の主人だったので、石子刑事は落胆して終《しま》った。それは彼の返答に曖昧な所がなく、警察署へ同行を求める口実もないので、そのまゝ帰すより仕方がなかった。
 石子は渡辺刑事の顔を覗ったが、渡辺にも格別好い智恵がないらしかった。
「どうも失礼、よく分りました」
 石子刑事は写真師に云った。口惜しそうな調子は隠す事が出来なかった。
 写真師は別に嬉しそうでもなく、腹を立てたと云うでもなく、黙って一礼するとさっさと歩いて行った。
 渡辺刑事は如才なくそっと彼の跡を追った。
 暫くすると刑事は帰って来た。
「確に浅田写真館の中へ這入ったよ」
 渡辺は茫然《ぼんやり》している石子にそう云った。
 二人はもう之以上見張りを続ける勇気がなくなった。夜が明けるのを待兼ねて二人はそれ/″\宿所へ引上げた。
 石子刑事が一眠りして正午近く神楽坂署へ出ると、書留速達の分厚の封筒を受取った。それは又しても見覚えのある支倉からの手紙だった。石子はちょっと舌打しながら封を切った。
 手紙には矢張以前のように嘲笑的言辞で充ちていた。が、三度目ではあるし、始めての時程は腹も立てなかった。
 が、翌朝再び支倉から分厚の手紙を受取った時には流石の石子刑事は彼の執拗さには呆れざるを得なかった。手紙は無論その都度消印を調べるのだけれども、一つ一つ差出局が違っていて、浅草だったり神田だったり、麹町だったりしたので、何の手懸りにもならなかった。
 手紙には相変らず嘲弄的な事が書並《かきつら》ねてあった。石子刑事はふゝんと嘲笑い返しながら読んでいたが、次の一句に突当ると、彼の忿懣《ふんまん》はその極に達した。
「青き猟師よ。汝の如き未熟の腕にて余の如き大鹿がどうして打とめ得られようぞ。万一打留め得られたら、余は汝に金十万円を与えよう」

 重ね/″\の侮辱に若い石子刑事は、もう我慢がならなかった。彼は果して支倉の手に這入るものやら、又そんな事が捜索上無益か有害かそんな事を考えている余裕もなく、支倉の留守宅へ宛て返事を書いた。
「手紙見た。丁度金の欲しい所であるから、折角の十万円頂戴する事にしよう。忘れずに用意をして置け」
 手紙はそんな意味だった。
 支倉喜平の大胆不敵の振舞に少しく不安を感じた石子刑事は渡辺刑事と相談の上、遂に委細を司法主任の大島警部補に報告した。
「ふん」
 赤ら顔の大島主任は眉をひそめて、
「成程、そいつは厄介な奴だ。抛って置いては警察の威信にかかわる。出来るだけ早く捕えて終おう。ついては石子君、決して君の手腕を疑う訳ではないが、こいつは一つ根岸君に加勢して貰おうじゃないか。こう云う横着な奴にはどうしても老練家が必要だからね」
 根岸と云うのは当時署内切っての老練な刑事で、警察界には二十年近くもいるのだった。他署で鳥渡|失策《しくじ》った事があって、官服に落されようとしたのを危く免れてこの署に転勤して、私服予備と云う刑事よりも一段低い位置にいた時にすら署内の刑事残らず指揮した程だった。石子は根岸とは親しい仲だったので格別不服はなかった。
「徹宵の張り番とは中々骨を折ったね」
 話を聞いた痩ぎすの根岸刑事は、浅黒い顔を緊張させながら石子刑事に云った。
「然し張込みは対手に悟られると効果が薄いよ。兎に角隣近所や出入の商人に監視を頼んで置くのが好い。こう云う場合に本人が普段近所に評判が好いんだと鳥渡困るがね、逆だと非常に都合が好いんだ、進んで知らして呉れるからね。それから写真を早く手に入れて各署へ廻して置かねばいけない。それから君の押えた写真師、浅田とか云った男だね、そいつは十分調べて見る価値があるね」
 石子刑事は根岸の言葉を噛みしめるように黙々として聞いていた。

 二月初めの陰鬱な空から粉雪がチラ/\していた。
 石子刑事は早朝から白金三光町の支倉の家の近隣を歩いて四五軒の家に、支倉の監視をたのみまわった。
 意外だった事には彼が事情の概略を話して、支倉主人が帰って来た形跡があったり、又支倉の家に何か変った事が起ったら、早速警察へ知らして貰いたいと云う事を依頼すると、いずれも快よく引受けて呉れた事だった。彼等の口裏から察しると、支倉はどうした訳か近所の人達からよく思われていないようだった。
 こんな事なら三晩も四晩も徹宵見張りをする事はなかったと後悔しながら、それでも案外旨く事の運んだのを喜びながら、石子は写真を手に入れる為に支倉の家に向った。
 支倉の細君は石子の姿を見ると不愉快な表情をしたが、然し調子よく彼を迎えて奥の一間へ通した。石子刑事は高
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