罪に非ざれば、真の申立を為す能わず、就いては被告は前科あります事とて、此後いかに身の濡衣たる事を弁明なすも、中々容易に言い解く詮もなきことゝ思われます。被告は無罪出獄を夢みても居りませねば、豊多摩監獄に送られ、あのいやしき苦役をつとむる考えもありません。そうだからとて冤罪のために絞首台に上るも快よしとせざる者であります。此まゝ長く予審にお繋ぎ置きを願います。此後はキリスト教書籍を多く読み、陰に陽に一人なりとも主に導きたく存じます。精神の修養につとめとう存じます。ついさきごろ迄はたゞ被告は放火殺人という冤罪の下に在る事を被告の死にて証明せんものと思い、縊首を企てお上に余計な御手数を煩わし実に申訳ありません。英邁賢明なる判官閣下、被告喜平伏して此如く及御願候也。
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 この上願書を読んで感ずる事は支倉の冤罪の訴え方が如何にも弱々しい事で、判官の心中に鳥渡した疑惑が生じたのを機会に、只管《ひたすら》哀訴嘆願して判官の心証を動かそうとする所が見える。この態度が後にだん/\硬化して行く所が注目に値するのである。
 古我氏はこの上願書を受取って鳥渡眉をひそめた。いつまでも予審廷に置いて呉れと云う彼の申出の真意が分らないのだった。

 支倉が古我判事の所へ上願書を送って、無罪にもなろうと思わぬが、冤罪で死刑になるのは嫌だ、願わくばいつまでも未決に繋いで置いて呉れと云ったのはどう云う訳か。
 彼が事実犯した覚えがないのなら、余りに女々しい泣事だ。何故強く冤罪を主張しないのか。どうも覚えのある罪を少しでも軽くしようと思って、判官の憐れみを乞うているように思える。が、一方から考えると、四囲の形勢が切迫しているので、とても冤罪だと主張して見た所で通りそうもないので、一時逃れに曖昧な事を述べて判官の心中に一片疑惑の念を起さしめ、徐々に形勢の挽回を計ろうと思ったのかも知れない。けれども事柄が事柄である。
 殺人放火と云う罪名で死刑になろうかとしている時だから、もし真に冤罪ならこんな悠長な事は云っていられぬ筈だ。が、考えようによっては自暴自棄的な、アイロニカルな意味でいつまでも予審に繋いで置いて呉れと云ったのかも知れぬ。
 古我判事は電車問題を余程重要だと考えたと見えて、僅々三、四十日間に三十六回の証人喚問を行なって、熱心に調べた彼が、支倉の第三回訊問、即ち電車が開通して
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