判官が特定の先入観に捕われる事は危険であるので、勉めて慎重の態度を取っていたのであるから、今日計らずも支倉の徹底的犯罪事実の否認にあってもさして狼狽はしなかった。そうして彼の否認中に多くの矛盾のある事を見逃しはしなかった。
 然しこゝに於て、古我氏は以前に数倍した慎重な態度を取らねばならなかった。支倉の第三回の訊問の五月二十三日まで凡そ四、五十日間に、彼は既に一度召喚した神戸牧師、小林定次郎を初めとして新に写真師浅田其他合計三十五名の証人を喚問した。その上に静子の母、中田かまを参考人として一回都合三十六回に渡って訊問を行なった。之らの調書を一々挙げるのは余りに煩わしいから省くけれども、概して支倉に不利なるものが多かった。
 法治国に於ては法律の適用が頗る重大な結果を来すので、殊に刑法に於ては個人の利害に関する事多く、その為法官も出来るだけ慎重審議する。その結果罪の決定を見るまでには多大の時日を要する。断罪の遅延する事は屡※[#二の字点、1−2−22]問題となり、既にシェークスピアの戯曲中のハムレット皇子が厭世観に捕われて、自殺せんかと思いつめた時に、厭世観を誘う一つの原因のうちに法の遅滞と云う事を数えている。
 然し今こゝに古我判事の周到なる訊問振りに直面すると、法の遅延などと云う事に不平は洩らせなくなる。もとより古我氏のみならず、すべての判官はいずれも古我氏に優り劣りのない取調べをした上でなければ断罪に至らないに違いないのだ。
 余談は置いて、五月二十三日喜平第三回の訊問に取りかゝろう。
 この時は支倉は第二回の訊問の時程白々しい態度は執っていなかった。之を以て考えると、第二回の時は彼は自白後の内的反動で興奮していたのかも知れない。訊問は聖書の窃盗より徐※[#二の字点、1−2−22]に放火事件に及んで最後に殺人事件になっている。尤も興味のある殺人の所を例によって少し抜書して見よう。
 問 被告は神戸牧師に貞を無理に犯したと自白したか。
 答 犯したと云ったけれども無理とは云いません。
 問 九月二十六日貞に会った事は相違ないか。
 答 其日は丸切り会いません。
 清正公《せいしようこう》坂で待受けた事はありません。清正公坂より赤坂に電車で行ったと警察で述べたが、其頃同所に電車はない筈です。ない電車には乗れません。
 古我判事は支倉のこの返答に思わずはっと顔色を変え
前へ 次へ
全215ページ中145ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング