支倉は二十日間未決監に前途の暗澹たる運命を嘆いているうちに、ふと一切を否定しようと云う事に考えついたのではあるまいか。彼にしてこゝでもう少し理性を働かして、否認すべきは否認し、肯定すべきものは肯定する態度に出たら、何とか判官の心証を動かして、事件を容易に片づける事が出来たかも知れぬ。彼の不敵の魂は一旦こうと決心したら容易に動かぬのである。彼の善心と云おうか仏性と云おうか、兎に角彼の心境のうちにある良心は神楽坂署の署長室の自白に一旦眼覚めかけたのであるが、昼尚暗い独房のうちに二十日間押し込められているうちに、再び彼の悪心が跳梁を初め、遂に完全に支倉の肉体を征服して終って、こゝに彼は再び昔日の支倉喜平に帰ったのであるまいか。何にしても徹頭徹尾否認の態度に出たのは不可思議千万である。
 問 被告は小林定次郎に貞を意思に反して姦したる旨の詫状を入れてはないか。
 答 どうであったか分りませぬ。
 問 無理に犯したことは相違ないか。
 答 どうであったか、宜しき様願います。
 問 被告は貞を赤坂の順天堂病院に診せる考えを抱いたのか。
 答 左様な事は警察の人が云わせた事で私は分りませぬ。
 問 然らば前回被告が述べたごとく貞を井戸に入れた点はどうじゃ。
 古我判事は鋭き一問を発した。

 古我判事から貞を井戸に投じたと云う自白はどうだと、鋭く突っ込まれた支倉は恐れる色もなく答えた。
 答 入れませぬ。警察に於て徹夜せしめ、入れたろうと云われたのを、其通りと申立をなし、又当予審に来てもその通り申すよう警察で云われた為井戸に入れたと申しましたが、実際は入れません。
 問 然らば前回被告の述べた其余の事実は如何。
 答 皆嘘です。
 高輪の私の宅に私が放火した事もなく土方に放《つ》けさせた事もありませぬ。何処から火が出たかも存じませぬ。私は屡※[#二の字点、1−2−22]《しば/\》火事に遭いましたけれども嘗《かつ》て放火はいたしませぬ。
 問 被告は今回逃走中|密《ひそか》に妻に会い、写真を破棄せしめたか。
 答 私は破棄せしめませぬ。浅田が破棄した方が宜しいと云ったのです。
 第二回の訊問は否認を以て始まり、否認を持って終った。この終始一貫した犯罪事実の否認は古我判事にどう響いたであろうか。
 古我氏は既に今までの取調べに於て、朧ながらにも或る結論を脳中に画いていた。けれども裁
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