件の真相が掴めたように思われた。
 彼は更に四月六日静子の母を参考人として放火事件の取調を行い同日広島県下から召喚した貞の父を調べたが、いずれも今までに判明した事実を裏書きしたに過ぎなかった。
 事件に稍自信を得て来た古我判事は翌四月七日、去月二十日一回の訊問をしたきり打ち棄てゝ置いた支倉の第二回の訊問を行った。
 所が支倉の態度はガラリと変っていた。

 支倉喜平は予審判事の第一回の取調べの三月二十日から第二回の取調べの四月七日まで凡そ二十日間東京監獄に監禁せられている間に何を考えたのであろうか。その二十日間に古我予審判事は或いは家宅捜索をなし、或いは実地検証をなし、十指に余る証人を召喚し、中には遙々《はる/″\》広島県下から呼び寄せたものさえあるが、苦心肝胆を砕いて漸く核心に触れる事が出来たので、今日第二回の訊問をなすべく支倉を予審廷に呼び出したのであるが、支倉は前回の悄然として面さえも挙げ得なかった態度に比し、今日はその特徴のある真黒な顔をすっくと上げて、大きな眼玉をギロリと光らして、平然として判事に対したのだった。
 古我判事はジロリと支倉の意外な態度に注意の眼を向けながら徐ろに口を切った。
 問 被告の所に此離婚証書があったが、それはいつ作ったものか。
 答 知りませぬ。離婚する話があったか否も忘れました。
 問 然らば此の建物譲渡証書は如何。
 答 私は存じませぬ。誰が作ったか知りませぬ。家内に建物を譲る話をしてあったか否か分りませぬ。
 問 定次郎より百円の受取証を取ったか。
 答 取った様にもあり、又取らぬ様にもあります。
 問 神戸より右金を定次郎に授受の際被告は立会わなかったか。
 答 分りませぬ。
 問 授受は大正二年九月二十六日の夜であったか、又は其翌日であったか。
 答 晩であったか、朝であったか分りませぬ。神戸より話を受けたか否やは覚えませぬ。
 問 兎に角二十六日の晩被告は神戸方に行き小林兄弟に会ったか。
 答 警察に於ても皆が会ったと云うから会ったごとく申述べましたが、如何であったかわかりませぬ。
 問 何故分らぬ。
 答 どう云う訳か分りませぬ。
 支倉喜平は徹頭徹尾否認を続けた。然しながら最後の答えの如きは、神戸牧師小林兄弟が口を揃えて同日神戸方で支倉に会った事を証言しているのであるから、支倉の否認は理由なきものと云わねばならぬ。
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