は突如として支倉の家の前に止まった。
静子は子供を連れて外出していて不在だった。家には静子の母である老婆と、喜平の甥である少年とが留守をしていたが、判事は、物々しい有様にキョト/\としている二人を立会人として、家宅内全部を捜索して、聖書明細書、質物台帳、各一通、離婚届、建物譲渡に関する書類各一通、外に書状数通を押収した。
捜索時間は約四十分だった。
それからその足で直ぐ古我判事の一行は貞子殺害の場所とせられている古井戸の実地検証を行って調書と共に詳細な図面を拵えた。調書中には次のような事が書かれていた。
[#ここから2字下げ]
一、同所より更に小林貞子を投入殺害したりとの古井戸の箇所に至るには前記支倉方居宅前の五反田桐ヶ谷に通ずる道路を南行して中丸橋を渡り進む事約三丁にして、東西に通ずる道路の交叉点に至る。之より左折して東方に入る事約三十間にして道路の左側に接し古井戸の存したる地点に達す。
一、立会人の申立つる所に依れば該井戸附近は旧時松、杉等の密林及び竹藪等の間少し許りの畑地を有するのみにして、該井水は番人小屋の飲用に供せられしも、其後次第に伐採開墾せられ大正二年頃は所謂池田の新開地と称し寂寥たる原野と化し、該井戸側は腐朽し周囲は棒杭を立て針金を引廻し僅に崩壊を防ぎ、大正三年十月|浚渫《しゅんせつ》の際まで其のまゝに放置せられ、発掘せる木根所々に散在し、井戸の傍に一条の小径ありて雑草中を南北に縦貫し居たりと云う。
[#ここで字下げ終わり]
この調書は中々の名文だ。一読草茫々たる原野中の古井戸を髣髴とせしめて、凄愴の気人に迫るものがある。
三月二十九日支倉の妻静子は予審廷に召喚せられて、参考人として古我判事に訊問せられた。
神楽坂署で夫の恐ろしい罪の自白を聞いて、既に覚悟はしていたけれども、こうして改めて予審廷に呼び出されると、彼女は新な涙に誘われて、天帝の無慙な試練に歯を喰いしばってこらえているのだった。
問 其方は支倉喜平の妻か。
答 そうです。
問 いつ夫婦になったか。
答 明治四十三年十一月夫婦になりました。其翌年頃入籍いたしました。
あゝ、此の答えによると彼女は支倉が四度目の刑を終って出獄して間もなく結婚しているのである。
当時彼女は十九歳だったのである。
問 どこで夫婦になったか。
答 秋田県小坂鉱山の私の実家でした。支倉が
前へ
次へ
全215ページ中137ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング