に打たれて終った。
彼はこの時の事をこう書いている。
[#ここから2字下げ]
「当時の署長室の三十分ばかりの光景は、我ら数人の熟視した事であって、其厳粛荘重の有様と、我ら一同の満足とは今に至るまで忘れかぬる美しい記憶である」
[#ここで字下げ終わり]
神戸牧師は、支倉の立派な態度に打たれて、もはや迷惑も何も忘れておもわず彼の方を向いて云った。
「頼みたい事があるなら遠慮なく云い給え。何なりとも屹度《きっと》して上げようから」
支倉は牧師の方を振り向いた。彼の眼には新たなる感謝の涙が光っていた。
「有難うございます。御恩の程は忘れませぬ。もう何もお頼み申す事はありませぬ。この上は天国に生れ代って、皆様の御恩義に報います」
支倉の美しい告白の場面は之で終った。
彼は直ちに検事局に送られる事になった。
こゝに遺憾に堪えなかったのは、当時の庄司署長が年少気鋭にしてよくかの如き大事件を剔抉《てっけつ》し得たが、惜むらくは未だ経験に乏しかったので、彼の自白に基いて有力たる証拠を蒐集する事をしないで、早くも検事局へ送った事であった。
然し、それは無理もない事であった。と云うのは支倉の自白が余りに立派であった事で、立会人であった神戸牧師が前掲の言葉のうちで認めている通り、彼の自白が真実である事は少しも疑う余地がなかった。のみならず彼は繰返し繰返し署長に感謝の念を捧げている。それは署長の取調べが情誼を尽し巧に人情の焦点を衝いて、支倉をして深く感銘させた為であって、彼が将来署長に向って反噬《はんぜい》を試みようなどとは夢にも思っていなかった。その為にも早《はや》証拠蒐集等の事をなさず、只彼の自白を基礎として検事局へ送ったのである。
之が後年数年の長きに亘って事件を混乱に陥らしめ、彼支倉をして生きながらの呪いの魔たらしめ、多数の人を戦慄せしめた大きな素因であった。
或人は庄司署長を攻撃して、功名に逸《はや》る余り、無辜《むこ》を陥いれたので、支倉は哀れな犠牲者だと云うその是非についてこれより述べよう。
庄司署長は果して支倉に罪なき罪の自白を強要したのであろうか。
彼は三年前に犯されてあわやその儘葬り去られようとしていた恐るべき犯罪を発《あば》き出した事について、警察署長として大きな誇りを感じていたに違いない。殊にその犯人が一筋縄で行かない曲者で、手を替え品を替え辛
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