事はありません。私は少しも後悔などはいたして居りません」
 支倉は妻の健気な一言に激しい衝動を受けて、身体をブル/\慄せた。彼の顔面には感激の情が充ち満ちていた。
「ほんとうにお前はそう思って呉れるのか」
「はい」
 妻の返辞は短かったが、犯すべからざる力が籠っていた。
「よく云って呉れた。お前のその一言はわしにどんなに心強く響く事であろう。わしは実に幸福だ」
 支倉は眼を活々と輝かして妻をじっと見つめていたが、やがてふと思いついたように、
「そうだ。お前も差向き何かと不自由であろう。今わしは八十円程金を持っている。署長さんの手許に保管してある筈だから、わしはそのうち二十円もあれば好い。残りの六十円はお前に遣るから好いようにして呉れ」
「いえ、いえ」
 静子はハンカチを眼に押し当てゝ、激しくかぶりを振りながら、
「その御心配は御無用です。私はお金など要りませぬ。あなたこそ御入用でしょう。どうぞそのまゝお持ち下さいまし」
「いゝや」
 支倉は妻が金などは要らぬと云うのを押し止めながら、
「わしにはもう金などは不要なのだ。そうだ、誠お前がいらないのなら、せめて死んだ貞の為に墓でも建てゝやって呉れ」
「おゝ、ほんにそうでございました。そう云う思し召なら頂戴いたしましょう。私は少しも欲しくありませんが、仰せの通り死んだ貞の墓を建てゝ、後《あと》懇《ねんごろ》に弔ってやりましょう」
「あゝ――っ」
 支倉はとう/\男泣きに泣き崩れた。
「あゝ、わしはもう何にもいらぬ。もう何も思い残す所はない。署長さんの手許にある金は全部お前に遣るから、後々の事を宜しく頼むぞ」
 一座は一種云うべからざる圧迫を感じた。
 戸外では罪ある者も罪なき者も折柄の春光を浴びて、嬉々として自由に足どり軽く歩き廻っている。
 然るにこの狭苦しい冷たい一室では、夫は恐ろしい罪名の許に背後に縛《いましめ》の縄を打たれて、悔悟の涙に咽び、妻は褥《しとね》さえない板敷に膝を揃えて坐ったまゝ、不遇な運命に泣いているのだ。免るべからざる人間生活の裏面にまざ/\と直面して、誰か何の感動を受ける事なしにこの有様を見る事が出来ようか。
 両手を膝の上に置いて、すゝり上げる声を噛みしめながら、肩を激しくふるわせて、悲嘆に暮れているいじらしい静子の姿に、流石の庄司署長も思わず眼をしばたゝくのだった。
 神戸牧師はすっかり厳粛さ
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