っていた。そこで夕食にと、支倉は貞に天どんを喰べさした。無心に天どんを喰べている少女を見て、支倉は果してどんな気持がしたであろうか。
彼は新宿からの帰途を態《わざ》と山の手線の電車を選んだ。
当時貞のいる知合の家と云うのも目黒駅からそう遠くなかったので、支倉は別に疑われる事なしに彼女を誘う事が出来た。
目黒で下車した時には日はもうトップリ暮れていた。
目黒駅で下車した支倉は態と裏路を選んで、女を池田ヶ原の方へ連れ込んだ。
今でこそ目黒駅は乗降の客が群れて、中々の混雑を見せているが、大正三年頃は頗る閑散な駅で、昼間でも乗降客がせいぜい四、五人と云う有様で、ましてや夜となると乗降客は殆どなかった位である。それは大崎へ出る路は元より今のように家が立並んではいないし、表通りだけはバラ/\と家が立っているが、裏は直ぐ今云う池田ヶ原である。宵の口ではあるが、人通りなどは絶えてない。
支倉はたゞ広い草茫々と生えている野中へと進んで行った。貞は何気なくついて行く。やがて原の中央の古井戸に近づくと、支倉は態と足を遅らして、少女と肩を並べるなり、あっと云う間もなく彼女に飛びかゝって、かねて用意の手拭で絞め殺し、死体は古井戸の中へ抛り込んで終った。
この死体が越えて六ヵ月目に浮き上って、何者とも知れない自殺死体となって埋葬せられ、それから三年目の大正六年二月神楽坂署の手で発掘せられたのである。死体が着衣の一部と、犬歯の特異な発達によって、小林貞と確認せられたことは前に述べた通りである。
貞の父親が血眼になって娘の行方を探した事は云うまでもない。又叔父の定次郎が支倉が怪しいと睨んで再三掛合った事も既に読者諸君の御承知の事である。然し、無論支倉は白《しら》を切って対手にしなかった。当時支倉が神戸《かんべ》牧師に宛て送った手紙にその有様が覗かれる。
[#ここから2字下げ]
「此度の件に就ては色々御心尽しを忝《かたじけ》のうし、何と御礼申してよきやら、御礼の申上げようも無之《これなき》次第、主は必ず小生に成代《なりかわ》り、御先生の御心尽しの万分の一たりとも、屹度《きっと》主は御先生へ御酬い下さる事を信じて疑わざるものに候。(中略)あゝ牧師殿の切なる御言葉にお委せいたし、先方では病院より逃奔さすとか、今又隠すとか、一度ならず二度ならず失敬千万事、然し御先生の言葉もある事、目をつ
前へ
次へ
全215ページ中120ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング