かないのは、実際に彼女は何事も知らないと認めるより仕方がなかった。
「ちょっ」
 三日目には流石の根岸刑事もとうとう匙を投げた。
「強情な女だ。だが実際知らないらしい」
「知らない筈はないと思うが」
 渡辺刑事は口惜しそうに云った。
「実際知らないのかなあ」
 かくて静子の口から分ったのは小林貞の暴行事件の真相だけだった。

 話は三年前に溯《さかのぼ》る。
 真白に咲き乱れた庭の沈丁花の強烈な香が書斎に押寄せて来て、青春の悩みをそゝり立てるような黄昏時だった。若い牧師|神戸《かんべ》玄次郎氏は庭に向った障子を開け放して、端然と坐って熱心に宗教書を読み耽っていた。
 机の上の瑞西《スイッツル》から持って帰った置時計はチクタクと一刻千金と云われる春の宵を静に刻んでいた。
 折柄襖が静かに開いて夫人が淑かに現われた。
「あの支倉さんが是非お目にかゝりたいと仰有るのですが」
 振り向いて夫人の顔を見た神戸氏は稍顔を曇らし乍ら反問した。
「支倉が?」
「はい」
 支倉は彼の妻の静子の紹介で神戸氏の所へ両三回出入しているのであるが、俗に云う虫が好かないと云うのか、神戸氏はどうも厚意が持てないのだった。罪人を救い、曲ったものを正すべき宗教家として、人を遇する上に感情を交えるのは慎むべき事であるが、神でない以上愛憎を感じるのは止むを得ぬ。尤も神戸氏は決して支倉を憎んでいるのではない。只何となく少しばかり気に入らぬと云うだけなのだ。彼の方から師事して教えを求めに来るのを排斥する訳には行かぬ。
 彼はバタリと机の上の書物を閉じた。
「こちらへお通しなさい」
 支倉喜平は一癖ある面魂《つらだましい》に一抹の不安を漂わせながら、書斎に這入って来た。
「御無沙汰いたしました」
 彼は平伏した。
「こちらこそ、お変りなくて結構です。まあお敷なさい」
 牧師は彼に蒲団をすゝめた。
「有難うございます」
 支倉は蒲団を敷こうともせず、モジ/\していた。
 暮色が忍びやかに部屋の中に這入って来た。
 あたりが模糊として、時計の音が思い出したように響いた。
 神戸氏はつと立上って頭上の電燈のスイッチを捻った。さっと黄色を帯びた温かい光が流れ落ちて、畳の目を鮮かに照した。夕闇は部屋の隅の方に追いやられた。
 モジ/\していた支倉は神戸氏が静かに元の座に帰った時に、つと決心したように頭を上げたが、直ぐに
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