ら駆けて来た四、五人の刑事がバラ/\と彼に折重なって捕縄は忽ちかけられた。
 かくて怪人支倉は逃走後一ヵ月有余、三月の空蒼く晴れ渡った朝、深川八幡社頭で哀れにも神楽坂署員に依って捕縛せられたのだった。聖書窃盗の嫌疑を受けて逃亡した彼は、こゝに他日恐ろしい罪名の許に鉄窓に十年の長きに亘って坤吟する呪わしい贖罪の第一歩を踏み出したのだった。
 縛についた時の彼の服装は茶の中折に縞の綿入の着流し、その上に前に述べた通り黒っぽい二重廻しを着て足駄を穿いていた。が、彼の懐中には現金八十余円入の財布の外に、新しい麻裏の草履が一足に、弁慶縞の鳥打帽子が一つ、毒薬硫酸ストリキニーネの小瓶が潜められていた。麻裏草履と鳥打帽子は云うまでもなく、すわと云う時に逃げ出す為で、毒薬は最後の処決の為であろう。之を見ても彼の用意と覚悟が覗われる。
 私は今まで長々と支倉喜平が逃亡から受縛に至るまでの経路を述べた。その如何に波瀾重畳を極めたるかは読者諸君に、私の拙《つたな》い筆を以てしてもよくお分りの事と思う。大正六年と云えば正に今より十年前であるが、この時代に於て、アルセーヌルパンの小説物語をそのまゝ地で行くような大胆不敵にして、かくまで奸智に長けた曲者が実在していようとは、種々の空想を逞しゅうして探偵小説を書く私でさえが夢想だにしなかった所である。具《つぶさ》に今日までの物語を読まれた諸君は今更ながら書き立てなくても、彼がいかなる権謀を逞しゅうしたか十分お分りの筈である。
 彼の受縛を境としてこの物語の前篇は尽きる。これより後に現われる訊問より断罪に至る中篇は、後篇に当る彼の執念の呪と相俟って、更に奇々怪々たる事実を諸君の眼前に展開するのである。


          訊問

 捕えられた支倉の奇々怪々な言行を述べるのに先立って、鳥渡《ちょっと》断って置きたい事がある。之は読者諸君に取っては退屈な事で御迷惑であるかも知れない。然し之は是非述べて置かないと後の事に重大な関係があるので、一回だけ辛抱をして貰いたいと思う。
 それは支倉の容貌の事であるが、彼は好く云えば魁偉、悪く云えば醜悪と云うか、兇悪と云うか、兎に角余程の悪相であったらしい。背丈《せい》はさして高くなく、肉付も普通で所謂中肉中|背丈《ぜい》だが、色飽まで黒く、それに一際目立つクッキリとした太い眉、眼は大きくギロリ/\と動く物凄さ
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