らカラリと晴れ上って、朝はシトヾに濡れた路に所々に水溜があったり、大きく轍《わだち》の跡がついているのを名残として、美しい朝日がキラ/\と輝いて、屋根からも路の上からも橋の上からも、悠々と陽炎《かげろう》を立たせていた。
 由緒のある深川八幡宮の広々とした境内は濡そぼった土の香しめやかに、殊更に掃清めでもしたように、敷つめた砂の色が鮮かに浮び出ていた。雨に打たれて半《なかば》砂の中に潜り込んだ、紙片が所々に見えて、反て風情を添えていた。
 未だ昼には間のある事とて、露店商人も数える程しかなく、ホンの子供対手の駄菓子店や安い玩具を売る店などが、老婆や中年のおかみさんによって、ションボリと番をせられているだけで、怪しげな薬を売ったり、秘術めいた薄ぺらな本などを売りつける香具師《やし》達の姿は一つも見当らなかった。
 社頭は静寂としていた。
 拝殿の前の敷石には女鳩男鳩が入乱れて、春光を浴びながら嬉々として何かを漁っていた。小意気な姐さんが袋物の店を張る手を休めて、毎日眺めている可愛い小鳥達を、今日始めて見るように見惚れていた。参詣人はチラホラその前を通り過ぎた。
 すべてが長閑《のどか》だった。
 玩具店を張る老婦も、神前に額《ぬかず》く商人風の男も、袋物店の娘に流目《ながしめ》を投げてゆく若者も、すべて神の使わしめの鳩のように、何の悩みもなく、無心の中に春の恵みを祝福しているのだった。彼等に取ってはこの一刹那に於てすら、神に逆らって罪を犯すものがあり、その罪人を血眼になって追い廻している警吏のある事などは考えの外であった。
 事実、この時に当って神楽坂署の刑事達は続々この平和境に押出して来るのだった。
 或者はポッと出の田舎者のような風をしていた。或者は角帽を被って大学生を装うていた。或者は半纏を羽織って生《は》え抜きの職人のような服装をしていた。彼等は素知らぬ顔で、表面この静寂な空気に巧に調和を取りながら、外の参詣人の間に交って、それ/″\油断なく定められた部署を警戒していたのだった。
 中にも軽快な洋服を着て青年紳士然としていた石子刑事の心労は一通りでなかった。何故なら彼は今日捕縛すべき怪人支倉の顔を知っている唯一の人間だったからである。尤も支倉の持徴のある容貌は十分刑事達の頭に這入ってはいるけれども、彼もさるものどんな変相をしているかも知れぬ。支倉は枯薄《かれす
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