悠々と上って行くのが見えた。言葉を切って鳥渡窓外の景色を眺めていた教授は、ふと緊張した石子に眼を落とすと周章《あわて》て言葉をついだ。
「もう一つの方はメリンスの地に模様があります。その模様は大きな花、多分牡丹かと思えるものゝ一部で、色はすっかり褪せていますが、確に元は赤色だったのですよ」
 聞いているうちに石子の暗い心は春光に浴した蕾のように次第にほぐれて来た。彼の顔には押えても押え切れない喜びの微笑が浮び出て来るのだった。

「有難うございました」
 思い通りの結果を得た石子刑事は、嬉しそうにして若い教授に頭を下げながら、
「お蔭で貴重な手懸りが得られました」
「そうですか、それは結構でした」
 若い教授は鷹揚にお辞儀をした。
 校門を出た石子刑事の足取は揚々としていた。見込をつけた通り発掘した屍体は九分通り小林貞の屍体に相違なかった。自殺か他殺か其点は未だはっきりしないが、屍体の上った場所と云い、前後の事情から押して、先ず支倉の所為と見て好い。この上は出来るだけ証拠を集めて支倉を自白させる許りだ。
 それにしても支倉はどこにいるのだろうか。この考えに突当ると石子刑事の晴れやかだった顔は俄に暗くなった。
 石子刑事はふと又暗い気持になったが、出来るだけ気を変えて、滅入る心を今日の成功に励ましながら、この吉報を署長以下に報告すべく神楽坂署へ急いだ。
 石子刑事に代って支倉追跡の任に当って、写真師浅田の家に泊り込んだ渡辺刑事の苦心も一通りのものではなかった。彼は一歩も家の外へ出る事は出来なかった。三食とも近所の仕出し屋から運ばせて、夜でも昼でも油断なく眼を光らしているのだった。すべての郵便物は配達夫から直接に受取り、怪しいと思われるものは浅田に命じて開封させた。浅田の出す手紙にも一々注意深く気を配ばらねばならなかった。彼は敵地にいる斥候兵のように全身を眼と耳とにして、一分たりとも気を許す事が出来なかったのである。
 もし今度しくじって再び浅田と支倉との間に文通でもさせたら、それこそ一大事で、二人とも尋常一様の者でない。驚くべく好智に長けた者であるから、そうなると再び何かの手懸りを掴む事は容易な事ではないのだ。浅田は表面恐れ入ったように見せかけてはいるが、隙を見せたら、どんな事を企てるか分らないのである。
 こうした渡辺刑事の並々ならぬ苦心は三日三晩の間空しく続いた。
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