もあるし、石子刑事はふと庭に眼をやった。縁の直ぐ前にある梅の枝が処女の乳首のようなふわりと脹らんだ蕾《つぼみ》をつけているのが眼に映った。やがて春だなあ、そう思って再び首を捻じ向けて居間の方を見ると、もう着物の端が見えない。気の故《せい》だか人気《ひとけ》がないように思われる。石子刑事ははっと顔色を変えて居間に飛込んだ。
不吉な予感のあった通り、そこには支倉の姿はなかった。箪笥の前に小柄な女が佇《たゝず》んでいた。年の頃は二十七、八で、男勝りを思わせるような顔は蒼醒めて、眼は訴えるように潤んでいた。
「奥さん」
一目で支倉の細君と悟った石子は大声で叫んだ。
「御主人はどこへ行きましたか!」
「只今表の方へ出ました」
細君は静かに答えた。
石子刑事は安心した。表へ出れば、表門からであろうが、勝手口からであろうが、待ち構えている渡辺刑事に直ぐ見つかって終《しま》う。そう周章《あわ》てるに及ばない。彼はそう思って落着くと、支倉の後を追う前に彼の鋭い眼で部屋の中をグルリと一廻り睨め廻した。彼の眼にふと開いた襖から鳥渡見えている二階へ通じる階段が映じた。その上にはさっき支倉が褞袍《どてら》の上にしめていた黒っぽい帯が蛇のようにのたくっていた。瞬間に彼の第六感はしまったと頭の中で叫んだ。
彼は脱兎の如く部屋を飛出すと忽ち階段を駆け上った。八畳と六畳二間続きの南に向いた縁の硝子戸が一枚開いていた。その傍に駆け寄って見ると、下はふか/\した軟かそうな地肌だった。その地肌の上に歴々《あり/\》と大きな足袋裸足の跡と思われる型が、石子刑事を嘲けるように二つ並んでついていた。
嘲笑
刑事は蒼くなって二階から駆け下りると表へ飛出した。只ならぬ彼の様子を見た渡辺刑事は驚いて声をかけた。
「君、どうしたっ!」
「に、逃がしたっ! 君はそっちへ廻って呉れ給え」
二人は右と左に分れて、支倉の家を包囲するように塀について廻った。それから出鱈目《でたらめ》にそこいら中を探し廻ったが、遂に徒労だった。二人は茫然《ぼんやり》して顔を見合した。
「僕が悪かった」
さっきの得意はどこへやら、石子は悄然として云った。
「少しも油断はない積りだったが、やっぱりまだ駄目な所があるんだなあ」
石子は手短に逃がした次第を語った。
「ふん」
聞終った渡辺は感心した。
「中々凄い
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