で、松下一郎と云う名を思いついたのだそうです。松下一郎と名乗って本郷の竹内写真館に書生に入り込み、入り込むたって名ばかりで、実は手紙の中継所《なかつぎしょ》にして置くなんて、鳥渡普通の人には思いつかない事ですよ。そうして警察の方へは始終愚弄した手紙をやっているんですよ。そんな事を考え合わすと、支倉と云う人は可成恐ろしい人ですよ」
静子は依然として黙っていた。
「余計な事かも知れませんが」
浅田は続けた。
「奥さん、今のうちにお見切にたったらいかゞですか。幸いに財産もあなたの名義になったんですし――」
「ご親切は有難うございますが」
静子は堪えかねたと云う風に遮った。
「そんな話はどうぞお止め下さいまし」
「そうでしょう。そりゃご夫婦の間として、ご立腹ご尤もです。然し奥さん」
浅田は異様に眼を輝かした。
「私の云う事も聞いて下さい。私は実際奥さんに敬服しているのです。学問もおありだし、確乎《しっかり》して居られる。私のとこのお篠などは無教育で困るのです。あんな奴はどうせ追出して終うのですが、どうでしょう、奥さん、私の願いを聞いて頂けましょうか」
「お願いと仰有いますのは」
静子は蒼くなった。
「奥さん、そんな野暮な事を仰有らなくても、もう大体お気づきじゃありませんか。私も今度は随分骨を折りました。私がいなければ支倉さんは夙に捕っているのです。私は事によると罪になるかも知れないのです。私がこんな危険を犯して尽したと云うのは、どう云う訳だとお思いになります。奥さん私はたった一つの望みが叶えたいばかりじゃありませんか。ね、奥さん、支倉さんなんかにくっついていては碌な事はありません。浅田はとに角正業で堂々とやっているのです。奥さん、どうかよく考えて下さい」
「私はそんな事にお返事申上げる事は出来ません」
静子は決心したように云った。
「失礼でございますけれども、どうぞお帰り下さいまし。子供ではございますけれども女中も居る事でございますから」
「奥さん」
浅田は気色ばんだ。
「では私の申出を、無下にお退《しりぞ》けになるのですか」
「止むを得ません」
「では何ですか、私があなたのために法律を犯すことさえして尽したのをお認め下さらないのですか」
「それはどんなにか感謝しているのでございます。然しそれとこれとは事が違います」
「ではあなたは飽まで支倉さんに操を立てよう
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