った。彼女はどうして夫が逃げ隠れをして、自分に家作を譲ったりする事を急ぐのか、よく分らないのだった。
 静子は顔を上げた。睫《まつげ》にキラ/\と小さい露が宿っていた。
「何でございましょうか、夫は之で警察へ出頭いたしますでしょうか」
「さあ、分りませんね」
 浅田は意地の悪い笑を浮べながら、
「まあ自首なんかなさるまいよ。誰でも刑務所へ這入るなどは感心しませんからね」
「あの」
 静子は顔色を変えた。
「じゃ、矢張り罪になるような事をしたんでございますか」
「さあ」
 浅田は困ったと云う表情をしながら、
「まあそうでしょうね」
「どんな事をしたんでございましょう」
「奥さんご存じないのですか」
「聖書の事でございましたら」
 静子は云い悪くそうに、
「あれは決して盗んだのではない。正当に譲り受けたのだと申して居りました」
「そうですか。じゃ何か外にあるのでしょう」
 浅田はニヤリと笑った。

 ニヤリと笑った浅田は続けた。
「何か未だ外にあるんでしょうよ。あゝ逃げ廻る所を見れば」
「いいえ。逃げていると云う訳ではありません」
 静子は躍起となった。
「この譲渡しの手続きさえすめば進んで警察へ出頭するものと信じて居ります」
「所がね、奥さん」
 浅田は狡猾《ずる》そうな表情を浮べながら、
「支倉さんは未だ逃げ歩く積りですよ。本郷の方ですね、手紙の送先の写真館ですね、あれが発覚しそうになって来たので、近々又格別の所を云って寄越す事になっているのです」
「本郷の方はどうなったのですか」
「私が少し失敗《あやま》ったものですからね」
 浅田は腮《あご》を撫でながら、
「宅《うち》へ探偵の廻物《まわしもの》が這入ったのですよ。小僧だと思って抛って置いたのですが、うっかりして本郷の方を嗅ぎ出されそうになったのです。それでね態《わざ》と外の所を教えて遣《や》って、昨日叩き出して終《しま》ったのですが、昨日今日あたりは探偵の奴め間違った所を探し歩いて、靴をすり減らしている事でしょうよ。ハヽヽヽ」
「そんな危険な思いをしないで、早く自首して呉れると好いんですがねえ」
 静子はホッと溜息をついた。
「然しね、奥さん、これはそうあなたが簡単に考えて居られるような事じゃありませんよ」
「えっ」
「と云って、そう驚く程でもありませんがね」
 浅田は態と話を切って、じっと静子の顔を見た。
 
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