殺などはしないだろう。

鵜澤憲一様[#地から4字上げ]笠神静郎

 あなたとは短い交際でしたけれども、心から親しむことが出来て、私はどんなに幸福だったでしょう、この点だけは、私は深く神に謝しております。さて、私は之から次に述べるような理由で、妻と一緒にあの世に旅立ちます。あなたはきっと悲しむでしょう。どんなに悲しむでしょうか。私はそれを一番恐れています。然し、あなたは前途有為の青年で、あなたの両親に対し、又私達夫妻に対し、国に対し、社会に対し、大きな責任を持っていることを自覚して下さい。私達夫妻は忌わしい運命の許に死を急がなければならないようになりましたが、私達はあなたが此の世に生残って呉れる事を、唯一の慰み、唯一の希望として死んで行くのです。くれぐれもお願いいたします。決して、無分別な考えを起してはなりません。私達夫妻の願いです。どうぞ、この点だけは堅く守って下さい。あなたが立派な人になって、私達夫妻の跡を弔って下されば、それこそ聖僧の何万巻の有難い読経《どきょう》にも勝るものです。
 さて、何から話していいでしょうか。あなたは私と毛沼博士との奇《く》しき因縁については、あら方御存じだと思います。二人はごく近い所に生れ、大学を卒業し教授となるまで、全く同じ道を通って来ました。あらゆる点に競争|対手《あいて》だった事は、やがてお互の身を亡す原因になったのです。然し、之はお互いに運命づけられて来た事ですから、今更悔んでも仕方がありません。
 大学を出てから私達は一人の女性を中に置いて、必死の恋を争わなければなりませんでした。その女性が私の妻であることは、御存じの事だと思います。
 御承知の通り毛沼博士は非常に朗かで社交的で話上手です。私はあらゆる点で毛沼博士とは正反対です。恋を争う上に、私はどんなに不利であるか、お察し下さい。妻も一時は全く毛沼博士に眩惑されました。妻はその処女《おとめ》時代に、毛沼博士とは親しい友人のように、自由に交際していました。私は羨望と、嫉妬に身を顫わしながら、それをうち眺めているより仕方がなかったのです。が、やがて彼女は毛沼博士が必ずしも表面上に現われているような人物でないことを悟り始めました。毛沼博士は陰険な卑劣な頗る利己的な人間だったのです。妻は漸く彼から離れようとしました。そして或日危く重大な侮辱を受けそうになり、辛うじてそれから逃れて、もう再び毛沼博士に近づきませんでした。そうして、私達は間もなく結婚式を挙げました。
 毛沼博士は表面上私達の結婚を喜んで呉れまして、贈物もするし、披露の席上では祝辞を述べて呉れました。私達は当時は彼がそんなに恐ろしい悪人とも思いませんでしたから、最早私達の事には、蟠《わだかま》りを持っていないものと考えていましたが、それは私達がお人好すぎるのでした。毛沼博士は私達の背後で爛々たる執念の眼を輝やかして、復讐の機会を覘《うかが》っていたのです。
 そんな事を夢にも知らない私達は、大へん幸福でした。妻は直ぐに妊娠して、結婚後一年経たないうちに、私達は可愛いい男児の親になっていました。
 私達の不幸はそれから三年経たないうちにやって来ました。御承知の通り私はその頃から血液型の研究を始めました。そして、恰度あなたがせられたように、私自身妻、子供の血液型を調べました。所が、私自身はA、妻はOであるのに、子供はBなのです。何度調べて見ても、その通りなのです。
 学問の上ではA型とO型からは絶対にB型が生じない事になっています。もし之に例外があるならば、すべての血液型に関する研究は無価値になり、最初からやり直さなければならないのです。所が、私の妻は他のどんな貞淑な妻よりも、更に貞淑であって、妻を疑うべき点は毛頭ありません。然し、私を父とし妻を母とするB型の子供は科学が許さないのです。
 私は悲しい哉、科学者でした。妻の見かけ上の貞淑を以って、科学の断案を覆すことは出来ませんでした。尤《もっと》も血液型の研究には未完成の所があり、絶対性があるとはいえないかも知れませんが、そうなると妻の貞淑にも絶対性はありません。譬《たと》えば妻の処女時代、又私が不在時、或いは外出時、それらのものに科学以上の絶対の信頼の置けないことは、自明の理であります。
 私は煩悶しました。科学を信ずべきか、妻を信ずべきか。私は日に日に憂鬱になり、元から無口だった私は、一層無口になりました。私のなすべき事は唯一つです。それは血液型のより以上の研究です。もしその結果従来の定説を覆すことが出来れば、同時に妻の貞淑が消極的に立証される訳です。従来の定説が破れなければ、妻は不貞の烙印を押されるのです。毛沼博士との処女時代の深い交際、危く免かれた危難、早すぎる妊娠、そうして、ああ、毛沼博士の血液型はB型なのです。
 私は
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