《ちいさ》い時の事が思い浮んで来た。
最初に二川の丸いクル/\とした色白の幼《おさ》な顔が浮び上って来た。それは母の朝子《あさこ》には似ないが、父の重行にそっくりだといわれていた。
それは後から聞いた話によって、記憶を強化したのだろうが、父子爵が眼の中に入れても痛くないという風に、じっと眼尻を下げて、重明がヨチ/\歩くのを見入っている姿が、朧《おぼ》ろに野村の脳底に映じた。
次は重行の葬式の当日の思出だった。
重行の死は実に急だった。確か重明が五つの年で、重行は三十九だった。彼はどっちかというと肥った方で、その点は弟の重武に似ていたが、年に似合ず先天的に心臓が悪かったらしく、心臓の故障で急死したのだった。
お葬式の日、重明の母が真白な着物を着て、その着物より白いかと思われるような蒼ざめた顔をして、必死に悲しみを耐《こら》えながら――この事は後に察したのだが――端然と坐っていた凄愴《せいそう》な姿が浮び上って来た。母の朝子は大へん綺麗《きれい》な優しい人だった。然し、病身でいつも蒼い顔をしていた。が、葬式の日は、一層蒼く美しかった。野村は子供心に大へん凄く思った。それから暫く彼は朝子未亡人の傍に行くのが恐かったほどだった。
追憶の場面は一転して、葬式の前日か前々日あたりの、二川家の取り混みの最中の出来事に移った。
重明も野村も未《いま》だ死という事がよく呑み込めなかったので家の中の騒ぎも他所《よそ》に、二人は庭で遊んでいた。そうしたら乳母にひどく叱られた。
乳母というのは、姓は何といったか覚えていないが、二川はお清さんと呼んでいた。朝子が病身で二川を育てる事が出来なかったので、二川が生れ落ちるときから来ている乳母だが恰度朝子と同い年位で、器量も負けない位美しく、大へん優しいいゝ乳母だった。野村もよく可愛がられた事を覚えている。
この乳母がその時は実に恐かった。
「坊ちゃん、そんな所で遊んでいてはいけません。早く家の中へお這入《はい》りなさい」
と激しく叱責《しっせき》されたが、その時に乳母が眼を真赤に脹《は》らして、オイ/\泣声を上げたので、野村は之は大へんな事が起ったのだなと思った。
その乳母は重明が十か十一の年にお暇を貰って行った。その時に彼女は野村に、
「うちの坊ちゃんと、いつまでも仲好くして下さいね。大《おおき》くなったら互いに力になって頂戴。うちの坊ちゃんはお友達が少いのですから、本当にいつまでも変らないでね」
と、しんみりとしていった。子供心にも、野村は何だか変な気持になった。
(あの乳母はどうしているだろう。本当に優しいいゝ人だった)
と、追憶すると共に、今までそれを思い出すこともなく、大して二川の力になれなかった事を、もう一度大へん済まないように思った。
二川家は大へん混雑していた。新聞記者らしい者が二三人詰めかけていた。流石《さすが》に家柄だけに、縁辺の人や旧藩の人達が多勢来ていた。
野村はむろん直ぐ通された。
彼が想像した通り、叔父の重武が万事采配を振っていた。
野村が通知されなかった事についていうと、重武は例の人を外らさない調子で、
「通知はどちらへもしませんでした。今見えている方は、みんな夕刊を見てお出《いで》になったのです。実は新聞の方も極力運動したんですが、どうも防ぎきれませんでした――」
そこで野村は委《くわ》しい話を聞く事が出来た。
今朝十時頃、いつもより眼覚めるのが遅いので、小間使の千鶴《ちず》が寝室を覗いて見ると、重明は半身を床《とこ》の外に乗り出して、両手を大の字なりに延ばしていた。どうも様子が変なので、
「御前さま、御前さま」
と二三回呼んで見たが、一向返辞がない。
それで、恐々《こわ/″\》側に寄って見ると、彼女は退《の》け反《ぞ》るように驚いた。重明は死んでいたのだった。
それから大騒ぎになった。
早速《さっそく》、かゝりつけの太田医学博士が駆けつけて来たが、死後既に十二時間位経過して、昨夜の十時前後にもう縡切《ことき》れているので、いかんとも仕方がなかった。十時前後といえば、恰度重明が寝に這入《はい》った頃で、彼は寝室に這入ると、直ぐ催眠剤を取る習慣になっているので、昨夜も確かにその通りにした形跡があった。
催眠剤は太田博士が調製するので、博士は用心して、二日分|宛《ずつ》しか渡さなかった。重明は二年以上不眠症に悩んで、催眠剤を呑み続けていたので、今は次第に激しい薬剤を多量に取るようになって、普通の人なら、一回分でも危険な位の程度になっていた。然し、重明ならば二回分一時に呑んでも、生命に危険を及ぼす事はない筈だった。もし数回分を一時に呑めば危険だが、重明は太田医師から貰う催眠剤を溜めている様子は少しもなかった。一日置きに小間使の千鶴が太田医院に行って、貰って来る二日分を、きちんと二回に呑んでいたのだった。
だから、重明の死因は太田医師の与えた催眠剤でない事は明白だった。然し、催眠薬は確かに呑んだ形跡があるから、恐らく、それと同時に取った他の毒薬の為に死んだものに違いないのだった。(無論自然死ではないのだ)二川家では過失で多量の催眠剤を呑んだ為かも知れないと、新聞記者に話したが、それは一つの体裁《ていさい》であって、過失という事は全然あり得ないのだった。覚悟の自殺という他はないのである。
「どういう毒物を呑んだのか、分りませんので、太田さんは解剖して見たらといっておられますがね、どうかと思っています」
と、重武はつけ加えた。(之は後に警察側からの要求で、解剖される事になった)
「遺書はなかったのでしょうか」
野村が訊くと、重武は眉をひそめて、
「えゝ、遺書らしいものは少しも見当らないんですよ」
「それは変ですね」
「全く。頭がどうかしていたんじゃないかと思われるんですが」
野村はふと思いついて、
「そういえば、例の雪渓の発掘ですね。あれはどういう目的だったか、あなたはご存じありませんか」
「分りません。私はやっぱり頭が変になった所為《せい》じゃないかと思っているんですが――」
「でも、何か目的があったんでしょうね」
「本人にはあったのでしょうね。然し、どうも正気の考えじゃありませんな」
「雪の中に何か埋《うずも》れてゞもいるような事を考えたのでしょうか」
重武はチラリと探るように野村の顔を見て、
「さあ」
「何か妄想を抱いたのでしょうね」
「えゝ、それに違いありません」
「乗鞍岳なんて、どこから考えついたのでしょう。むろん二川君は行った事はないと思いますが」
「地図を拡げて思いついたのでしょうよ。あれ[#「あれ」に傍点]は山と名のついた所へ行った事はありませんよ」
「そういえば」野村は又ふと思いついて、「あなたは若い頃旅行家だったそうですね」
「えゝ、旅行家というほどじゃありません。放浪ですな」
「中々登山をなすったそうじゃありませんか。アルプス方面では開拓者《パイオニア》だという事ですが」
「飛んでもない。物好きで、未《ま》だ他人《ひと》のあまり行かない時分に、登った事はありますが、パイオニアだなんて、そんな大したものではありません――鳥渡《ちょっと》失礼します」
恰度他の弔問客が来たので、重武はそこで話を切上げて、その方に行った。
野村は屍体の安置してある部屋に行って、線香を上げたり蝋燭をつけたりして、お通夜を勤めることにした。
三
野村は翌朝家に帰ると、ひどく疲れていたので、何を考える暇もなく、グッスリ寝込んで終《しま》った。
正午《ひる》少し以前《まえ》に眼を覚して、食事をすませて、もう一度二川家へ行こうか、それとも鳥渡《ちょっと》事務所の方へ顔出ししようか、いっそ今日は休んで終《しま》おうかと迷っている所へ、母が這入って来た。
母はいつにない厳粛な顔をしていた。
「鳥渡《ちょっと》話したい事がありますがね」
野村は母の様子が余り真剣なので、思わず坐り直した。
「何ですか、お母さん」
「亡くなったお父さんのおいゝつけなんですが、もし二川家に何か変った事が起るか、それとも重明さんが亡くなった時に、儀作に之を渡すようにといって、書遺して置かれたものですが――」
といって、母は手に持っていた大きな厚ぼったい書類袋を差出した。
それには父の儀造の筆跡で、
[#天から4字下げ]二川家に関する書類
と書いてあって別に朱で「厳秘」と書き添えてあった。
野村は驚いてそれを受取った。
母は多少その内容について知っているらしく、
「悠《ゆっく》りお読みなさい。今日は事務所へ出なくてもいゝでしょう」
「えゝ」
野村の行っている法律事務所は、父が面倒を見たいわばお弟子の経営で、彼は無給で見習いをしているのだから、可成《かなり》勝手が出来るのだった。
「今日は休みますよ」
「そうなさい」
といって、母は部屋を出て行った。
野村は変に昂奮を覚えながら、書類袋を開《あ》けた。
中には父の日記の断片と思われるものや、二川重行から来た書状や、告訴状の写し見たいなものや、報告書見たいなものが這入っていた。
野村は一通り眼を通した後に、大略年代順に並べて見た。
一番最初のものは、今から凡《およ》そ三十年以前のもので、重明や儀作の生れる二年ほど前の父の手記だった。
[#ここから2字下げ]
今日、二川重行が事務所に訪ねて来た。鳥渡待たしたといって、ひどく機嫌が悪かった。華族で金持で我まゝ育ちだから、実に始末が悪い。先代の重和という人も、気短かな喧《やか》ましい人だった。どうも二川家の遺伝らしい。
用件はというと、例の如く相続者の問題だ。
僕も鳥渡癪に障ったから、
「一体君はいくつか」
と訊いてやった。
「君と同じ年だ」
「じゃ、やっと、三十二じゃないか、奥さんは確か二十七だろう。未だ子供を諦める年じゃない。相続人、相続人といって騒ぐのは早い」
すると、二川は妙に萎《しお》れていうのだった。
「いや、朝子は身体が弱いから、到底子供は望めない。それに僕は心臓に故障があるから、いつ死ぬか分らんし――」
「心細いことをいうな、大丈夫だよ」
「駄目だ」
「大丈夫だ」
すると、二川は急に威丈高になって、
「君は何だ。僕の顧問弁護士じゃないか、相続の問題については、真面目に僕のいう事を聞く義務がある。君がそんな態度を執るなら、今日限り顧問弁護士を断って、他へ相談に行く」
そういわれては仕方がないので、
「よし、じゃ聞こう」
「僕が死ぬと、誰が二川家を相続するのだ」
「いつもいう通り、奥さんに相続権があるが、それでは二川家は絶えて終う。重武君が相続する順になるだろう」
「それが僕は堪えられないんだ。あの放蕩無頼の重武に、二川家を相続させる事は、いかなる理由があっても嫌だ。卑《いや》しい女を母親に持って、居所も定めず放浪している人間なんかに、二川家を継がしてなるものか。そんな事をしたら、奴は朝子をどんな眼に会せるか分らない」
「その事は度々聞いた。或る程度まで僕は同感だ。それなら養子をするより仕方がない。尤も君が死んだ後に、奥さんが養子することも出来るが」
「僕は血の続きのない他人に、二川家を譲りたくない」
「そんな事をいっても無理だ。華族は法律上の親族か、或いは同族以外からは養子を迎える事が出来ない」
「あゝ」
二川は落胆したように溜息をついた。
二川家は代々子供の少い家で、重行の父の重和は一人子だし、祖父の重正には弟が一人あるきりだった。御維新後この弟の後はどうなったかはっきりしないが、仮りにその孫があるとして、重行の再従兄弟《またいとこ》になって法律上の親族であるが、養子にするにはその子でなければ年が釣合わないが、そうなるともう親族でなくなって終うのだ。
それで、養子をするとすれば、全然血の続きがなくなり、それを嫌えば、重武に譲るより途はないのだ。
「あゝ」と、二川は又深い溜息をついて、「顧問弁護士として、何かいゝ方法を考えて呉れ」
「それは無理というものだ。重武君以外
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