頂戴。うちの坊ちゃんはお友達が少いのですから、本当にいつまでも変らないでね」
 と、しんみりとしていった。子供心にも、野村は何だか変な気持になった。
(あの乳母はどうしているだろう。本当に優しいいゝ人だった)
 と、追憶すると共に、今までそれを思い出すこともなく、大して二川の力になれなかった事を、もう一度大へん済まないように思った。

 二川家は大へん混雑していた。新聞記者らしい者が二三人詰めかけていた。流石《さすが》に家柄だけに、縁辺の人や旧藩の人達が多勢来ていた。
 野村はむろん直ぐ通された。
 彼が想像した通り、叔父の重武が万事采配を振っていた。
 野村が通知されなかった事についていうと、重武は例の人を外らさない調子で、
「通知はどちらへもしませんでした。今見えている方は、みんな夕刊を見てお出《いで》になったのです。実は新聞の方も極力運動したんですが、どうも防ぎきれませんでした――」
 そこで野村は委《くわ》しい話を聞く事が出来た。
 今朝十時頃、いつもより眼覚めるのが遅いので、小間使の千鶴《ちず》が寝室を覗いて見ると、重明は半身を床《とこ》の外に乗り出して、両手を大の字なりに延ばしていた。どうも様子が変なので、
「御前さま、御前さま」
 と二三回呼んで見たが、一向返辞がない。
 それで、恐々《こわ/″\》側に寄って見ると、彼女は退《の》け反《ぞ》るように驚いた。重明は死んでいたのだった。
 それから大騒ぎになった。
 早速《さっそく》、かゝりつけの太田医学博士が駆けつけて来たが、死後既に十二時間位経過して、昨夜の十時前後にもう縡切《ことき》れているので、いかんとも仕方がなかった。十時前後といえば、恰度重明が寝に這入《はい》った頃で、彼は寝室に這入ると、直ぐ催眠剤を取る習慣になっているので、昨夜も確かにその通りにした形跡があった。
 催眠剤は太田博士が調製するので、博士は用心して、二日分|宛《ずつ》しか渡さなかった。重明は二年以上不眠症に悩んで、催眠剤を呑み続けていたので、今は次第に激しい薬剤を多量に取るようになって、普通の人なら、一回分でも危険な位の程度になっていた。然し、重明ならば二回分一時に呑んでも、生命に危険を及ぼす事はない筈だった。もし数回分を一時に呑めば危険だが、重明は太田医師から貰う催眠剤を溜めている様子は少しもなかった。一日置きに小間使の千鶴が太田医院に行って、貰って来る二日分を、きちんと二回に呑んでいたのだった。
 だから、重明の死因は太田医師の与えた催眠剤でない事は明白だった。然し、催眠薬は確かに呑んだ形跡があるから、恐らく、それと同時に取った他の毒薬の為に死んだものに違いないのだった。(無論自然死ではないのだ)二川家では過失で多量の催眠剤を呑んだ為かも知れないと、新聞記者に話したが、それは一つの体裁《ていさい》であって、過失という事は全然あり得ないのだった。覚悟の自殺という他はないのである。
「どういう毒物を呑んだのか、分りませんので、太田さんは解剖して見たらといっておられますがね、どうかと思っています」
 と、重武はつけ加えた。(之は後に警察側からの要求で、解剖される事になった)
「遺書はなかったのでしょうか」
 野村が訊くと、重武は眉をひそめて、
「えゝ、遺書らしいものは少しも見当らないんですよ」
「それは変ですね」
「全く。頭がどうかしていたんじゃないかと思われるんですが」
 野村はふと思いついて、
「そういえば、例の雪渓の発掘ですね。あれはどういう目的だったか、あなたはご存じありませんか」
「分りません。私はやっぱり頭が変になった所為《せい》じゃないかと思っているんですが――」
「でも、何か目的があったんでしょうね」
「本人にはあったのでしょうね。然し、どうも正気の考えじゃありませんな」
「雪の中に何か埋《うずも》れてゞもいるような事を考えたのでしょうか」
 重武はチラリと探るように野村の顔を見て、
「さあ」
「何か妄想を抱いたのでしょうね」
「えゝ、それに違いありません」
「乗鞍岳なんて、どこから考えついたのでしょう。むろん二川君は行った事はないと思いますが」
「地図を拡げて思いついたのでしょうよ。あれ[#「あれ」に傍点]は山と名のついた所へ行った事はありませんよ」
「そういえば」野村は又ふと思いついて、「あなたは若い頃旅行家だったそうですね」
「えゝ、旅行家というほどじゃありません。放浪ですな」
「中々登山をなすったそうじゃありませんか。アルプス方面では開拓者《パイオニア》だという事ですが」
「飛んでもない。物好きで、未《ま》だ他人《ひと》のあまり行かない時分に、登った事はありますが、パイオニアだなんて、そんな大したものではありません――鳥渡《ちょっと》失礼します」
 恰度他の弔問客が来
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