》しかった。その大事な息子の魂が、父の見解に従うと売女としか思えない女給風情に盗み去られると云う事は、耐らないことであったのだ。
 或日とうとう最後の時が来た。私は父に袂別の辞を述べて家を出たのだ。それから人目を避ける為めに偽名をして、この路次の奥のささやかな家に世帯を持っているのだ。
 それから三年越し私達は随分苦労した。私は妻とした上は女給をさせて置く事は出来なかったから、僅か許り持出した金を頼みに、内職をしたり、ホンの僅な給料で勤めたりして、細々と生計を立てて来た。それが、何と云う不幸だろう。三月程前からすっかり職に離れて終ったのだ。一生懸命に倹約《つつま》しくして、やっと手つかずに残して置いたいくらかの貯えも、もうあと二月とは保たないのだった。それで私は毎日就職口を探して歩いていたのである。でも父に詫びると云う事はどうしても私の意地が許さなかった。こんな情けない有様を父に見られるのは死ぬより辛い。こんな事情で警察へ訴える事は、どうしても出来なかった。
 と云って同じような理由《わけ》で、新聞広告も出来なかった。私立探偵となると、費用はよし後に先方で出して呉れるとした所で、いつ先方の知れる事が当がなかった。
 私達は可愛い赤ン坊を間に置いて当惑した。
 どうしよう、どうしようと云いながら二三日経ってしまった。いろいろのものを赤ン坊の為めに買い調えねばならなかった。親の方では随分探しているだろうと思って、新聞社の前へ行ったり、隣のを借りたりして、新聞の広告には残らず眼を通したが、それらしいものはなかった。もしやと思って、呉服店の前へも二三度行って見たが、駄目だった。
 でも赤ン坊は障りなく育って行った。もう大分馴れて、私達の顔を見るとニコニコ笑う。それにつけてもほんとうの親達の心はどんなだろうと思うと、じっとしていられなかった。
 妻はお襁褓《むつ》をこしらえたり、それを取り替えたり洗ったり、それに世帯の苦労が加わりながらも、始終機嫌の好い顔をして、赤ン坊の世話をした。妻は真から赤ン坊を可愛っているようだった。三日目の朝こんな事を云った。
「あなた、この赤ン坊宅の子にしましょうか」
「馬鹿を云え」私は答えるのだ。「そんな事が出来るものか。第一親が承知しやしないよ」
「でも親が、今だに何ともしないのは可笑しいわ。きっと何か事情があって、棄子にでもしたんじゃないでしょうか」
「何を云うんだ。真昼間大勢の中で、棄子をする奴があるもんか。それに撰りに撰って、貧乏書生なんかに渡す奴はないよ」
 とは云いながら私にも実は不思議でならないのだ。新聞に広告さえも出さないで、子供の行衛を尋ねようとしない親の心が分らないのだ。
 妻は黙って終った。私には妻の心がよく分るのだ。私が自分の不注意から、こんな厄介物を背負込んで来た事を、苦に病んでいる事をよく知っているものだから、妻は自分の気苦労を押し隠して、私を慰めるように、ああ云うのだ。ほんとうに可愛そうな妻よ。私はどうしたら好いのだろう。
 所が、天は何と無情なんだろう、それとも親に背いた罰なのか、この窮境の時に、私はふと風邪を引いて終った。然し風邪を引いたと云って、じっとはしていられないのだ。就職口と赤ン坊の親とを探し出さねばならぬのだ。私は無理に外を歩いた。
 二三日すると私はどっと床についた。四十度の熱が出た。我慢にも起きられない。肺炎になったのだ。貯えの尽きようとしている時に、他人の赤ン坊を背負込んでいる時に、私は動けなくなったのだ。泣き叫ぶ赤ン坊と、高熱に浮かされる夫の間で、甲斐甲斐しく働く妻を見ると思わず熱い涙がハラハラと溢れるのだ。でも、私はもう筆をとる事さえ出来なくなった……。

        妻の手記

 夫が寝てから一週間になる。四十度の大熱が続いて、今が一番危険な時だとお医者さんが仰有った。肺炎には手当が肝心だと云うので、氷で冷したり、湿布をしたり、吸入をしたり、私は夜も寝ずに介抱した。でも未だ先が見えない。私はどうしたら好いだろう。
 夫も心配だけれども、赤ン坊にも伝染《うつ》りはしないかと随分心配だわ。だって赤ン坊は他所の子ですもの。夫が思いもかけぬ大病になって、その中で赤ン坊を馴れぬ手に育てる。それもあり余るお金でもあれば別だけれども、こんな貧しい中で、明日にもなくなるお金の事を思うと、ほんとうに情けなくなる。然し之もみんな神様がお試しなさる事だ。夫がこのまま治って呉れれば、赤ン坊が育ってさえ呉れれば、今までの苦労は何でもない事だわ。けれども、夫が寝込んだ為めに赤ちゃんのお母さんを探す事が出来なくて困って終う。ほんとうにお母さんはどうしていなさるんでしょう。
 夫が始めて赤ちゃんを連れて帰った時に、私は随分驚いたけれども、夫の話に真実偽りがあろうとは思いません。ほ
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