事だ。私は横丁へ曲った。そうして時折大通の方へ見に出た。角の交番の巡査が何となく恐かった。
自動車は引続いて二三台来たけれども、奥さんは来ない。もしや横丁に引込んでいる間に来たのじゃないかと、私は思い切って内部へ這入った。そうしてよくこんなに這入ったものだと思われる大勢のお客の間を縫って、一階二階と順に上へ昇ったけれども、考えて見ると随分無理な話だ。こんな雑踏した所で、両方で探し合った日にはどうして出遭う事じゃない、でも私はもう夢中だった。何階だかも分らなかった。赤ン坊を揺り動かしながら昇ったり降りたりして探し廻った。終いには腹立しさと情けなさとで涙がにじみ出た。美麗に着飾った夫人や令嬢が怪訝《けげん》な顔で私を見送った。
何べん目かで一番下へ降りた時に、私はふと入口の所に後向きに立っている一人の紳士に眼がついた。横顔を見ると驚いた。父なんだ。足かけ三年遭わない内に、気のせいだかいくらか窶《やつ》れたようだが、いかつい肩、利かん気の太い眉、骨の高い頬の皺まで、三年前そのままだ。父はじっと入口の方を睨んでいた。でもいつこっちを振り向くか分らない。私は大急ぎで出口の方に向った。そうして夢中で下足をとって外へ出た。もう大通りの方へ出る勇気はなかった。私は大通りと反対の方へ歩んだ。堀端へ出ると、銀行の前から橋の方へブラブラ歩き出した。
幸な事には赤ン坊は時々渋面は作ったが、まだ泣き出しはしなかった。だが、私はどうしたら好いんだろう。父がいる間は呉服店へ行く事は出来ない。呉服店の男衆に訳を話して預けようかと思ったが、容易には預ってくれまい。何しろ赤ン坊なんだから。角の交番へ行けば無論その女が来るまで待てと云うだろう。それに人目を忍んでいる私には警察が苦手なのだ。と云ってその中に赤ン坊が泣き出したらどうしよう。あのお母さんは半狂乱で私を探しているに違いない。私は、呉服店の前で待っているべきだ。だが、父が居るのをどうしよう。私は三年前父の前で、お世話にならなくても、一人前の人間になって見せますと放言したのだ。このみすぼらしい身装を、しかも他人の赤ン坊を抱いて、どうして曝す事が出来よう。
私は思案に余った末、一度宅へ帰る事にした。妻はきっと驚くだろう。けれども訳を話せば納得するに違いない。妻なら赤ン坊の世話も出来るし、泣き出せば近所のおかみさんが乳を呉れるだろう。赤ン坊を妻に預けて置いて私は直ぐ、呉服店に引き返えそう。今は三時だから呉服店の閉る五時までには充分本所まで往復する時間はある。その時分には父は帰っているだろうし、あの奥さんは自分の子供の事だ、余計に心配をかけるのは気の毒だが、きっと待っているだろう。そう決心して私は電車に乗った。
妻は私が赤ン坊を連れて帰ったのを見ると、丸い眼をはち切れるように瞶《みは》って吃驚した。
私が手短に事情を話すとまあと云って赤ン坊を受取った。そうして、
「なんて可愛い赤ちゃん」と云った。
誰だって、この赤ン坊を見たならばこう云わないで居られるものか。赤ン坊もやっぱり妻に抱かれる方が気持が好いのだろう。ニコニコと笑った。
妻は父に見つけられはしないかと、ひどく恐れたけれども、私は云い宥《なだ》めて、すぐ呉服店に引返えした。
恐々内部へ這入ったが、父の姿はもう見えなかった。そうして何とした事だ、赤ン坊のお母さんの姿もどこにも見えないのだ。
私は呉服店が閉るまで、内部をうろつき廻った。閉っても未だ暫く外に立っていた。けれどもとうとう奥さんの姿は見えなかった。
重い足を引摺って暗い気持に浸りながら、再び私は宅へ帰った、赤ン坊はスヤスヤと寝て居た。留守中に一度激しく泣いたそうだけれども、二三軒先のおかみさんに乳を貰うと、そのまま寝ついたのだった。
私は妻と顔を見合せてホッと溜息をついた。
私達二人でさえ、もち扱っているのだ、こんな天使のような悪戯者が飛び込んで来て、どうすることが出来ると云うのだ。
二人はいろいろ相談した。
何と云っても、警察へ届けるのが一番だけれども、それは出来なかった。父は警察へ私の捜索を依頼しているに違いないから、第一父に見つけられる事が恐かったし(之は妻が特別に恐れた。何故ならもし私が見つかればきっと二人の仲を裂かれると思っていたから)、私達が偽名して今の所に住んでいるのが、ひょっと知れるのも恐かった。
私は三年前今の妻と恋に陥ちた。妻は当時あるカフェの女給をしていた。彼女はほんとうに真菰《まこも》の中に咲く菖蒲《あやめ》だった。その顔があどけなく愛くるしいように、気質《きだて》も優しくて、貞淑だった。けれども頑固な父は女給であると云う事だけで私達の結婚をどうしても許さなかった。父にして見れば早く妻に別れて、男手一つで育て上げた一人息子は掌中の珠より可惜《いと
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