んとうに親の身になったら、どんなにか辛い事だろう。一時も早くお返えし申したいと思ったわ。
 けれども、その翌日、ふと赤ちゃんが夫によく似ている事を発見《みつ》けた時に、私はどんなに驚いたろう。横顔がそっくりなんですもの。私、疑っては済まないのだけれ共、夫が他所で生ました子で、何かの訳で連れて来たのだと思いました。でも余り夫の話が奇妙なんですもの。
 私、随分考えたわ。夫に限ってそんな筈はないと思うのだけれども、もしやと思うと、そりゃ情けなかった。けれども赤ちゃんはほんとうに可愛くて仕方がない。これが夫の子なら、この子のお母さんさえ承知なら私は喜んで育てるわ。私は心から夫を愛しています。私の為めにお父さんと喧嘩して、その為めにこんな悲惨な暮をなすっているんですもの。夫の子だと思えば私自分の子のように愛せるわ。私何遍か夫にその事を云おうと思った。だって、余りよく似ているんだもの。でも流石にそうとは云い兼ねて、一度冗談のように、宅の子にしようかと云ったら、すぐ馬鹿と叱られて終った。でも女と云うものはしようのないもの、私はまだ迷っていたわ。
 間もなく夫の病気、大熱が続いたので、お父さんの事や、私の事や、随分いろいろと囈言《うわごと》見たいな事を云った。私は心配でおろおろしながらも、それでももしや夫が赤ン坊の秘密でも云いはしないかと、ほんとうに我ながら気の狭いのにあきれる、聞耳を立た事だった。けれども赤ン坊の事は気が確な時に二度許り、早く親の手に返えしたいと云った切り。人と云うものはこんな時に嘘の云えるものじゃない。自分の子なら心配してなんとか云うに違いない。私ほんとに疑るなんて済まない事をした。赤ちゃんは夫の子でもなんでもありゃしない。他の赤ちゃんなんだ。
 こう分ると、何だか張りつめた気がガッカリした。赤ン坊は可愛くて可愛くて、それに私によく馴染んで、離すのは嫌だけれども、いつまでもこうしてはいられない。早く親の手に返さなければならないし、夫は病気だし、どうしたら好いだろう。
 ああ又隣で子供が騒ぐ。隣の人達はみんな好い人で、それにお母さん一人で大勢の子供を抱えているのだから、無理のない事だけれども、安静が第一だと云う夫の病気に障ったらどうしよう。こんな日当りの悪い六畳に三畳切のバラックで病みついている夫が気の毒で仕方がない。私と云うものさえなければ何不自由なく暮して行ける身分なのに、このまま熱が下らなかったらどうしよう。それよりももう一週間も病気が続いたら、薬を上げる事も出来ない。ああ涙で何にも分りゃしない。この意気地なし奴。
 どうぞ一日も早く夫の病気が治り、そして赤ン坊の親が知れますように、神様お願いです。

        私立探偵の手記

 私は未だかつて取扱った事のない奇妙な事件を依頼せられた。依頼人は若い婦人であったが、その夫が東京駅前である未知の婦人から、その婦人が呉服店行の自動車に乗るのを助ける目的で、その婦人の子供と思われる赤ン坊を受取ったままはぐれて終って、その赤ン坊を宅へ連れ帰り、種々の事情からそのまま預り育てていると云うので、夫が大患に罹った為め、妻たるその婦人が私の事務所を訪ねて、秘密裡に母親を尋ね出す事を依頼したのである。
 これは誠に奇妙な事件だ。
 預った方が警察に届けなかったのは、まあ理由があるとして、預けた方が之を秘密裡に葬ったのは合点の行かぬ事だ。私は直ぐに都下の各警察署、並に同業各私立探偵社を調査したけれども、赤ン坊の捜索願と云うのは一件もなかった。
 前後の事情から考えると棄子とは思われない。赤ン坊も赤ン坊の母親と思われる婦人も共に相当の身装をしていた点から察しても、生活に困るものと思われない。それに警察を憚るとはどう云う訳だろうか。普通の常識から考えると、母親たるものは自分の子供を失って平然として居られるものではない。況やその子はどんな他人が見ても愛せずには居られない可愛らしい子だと云うではないか。
 警察に訴えて出ないのは何か後めたい事がある為めとしか考えられないが、一体どんな事を恐れるのだろうか。
 第一に考えられる事は母親か或は父親か、それとも一家の中の誰かが、警察のお尋ね者になっている事だ。けれども母親の様子は犯罪者に関係があるようには見えない。のみならず、母子の情愛は些々《ささ》たる刑罰位には替えられぬ筈だ。
 第二は母親が子供を手渡した後、直ぐに何かの事情で外部との交通を断れた事である。例えば万引其他の犯罪で検挙せられたか、或は誘拐せられたとか云う如きである。然し私の調べた所では検挙せられた様子もなく、家出人の届出にも似よりのものはなかった。
 第三は、之は甚だ薄弱な理由だけれども、この外には最早考えるべき所は残っていない。即ちその子が正当な子でない事で、私生児、姦夫の子、
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