或は犯罪人の子などで、父親なり母親なりの身許を警察に知られたくない場合であるが、然しこんな事はよし訴え出た所で、充分隠せる事だし、又警察でも一身上の秘密を曝露するような事はしない。だからこんな事は、自分の子を失った母親を引止める障害となろうとは思えない。その外|継子《ままこ》、貰子、拾子等実子でない場合が数えられるけれども、いかに実子でないと云っても、他人に手渡して行衛が分らなくなったのを、そのままにして置く気遣いはない。
 そこでふと思いついたのは、その婦人は何かの理由で、赤ン坊を受取った青年を見知っていたのではないか、と云う事である。何故なら以上論じ尽した理由によると、どうしても見ず知らずの他人の手に赤ン坊を渡して、母親が晏如《あんじょ》としている筈がないからである。どう云う理由でかは分らぬが、その婦人が青年を知っていたとすると、その婦人は赤ン坊が無事にいつかは我手に戻る事が信ぜられるから、幾分落着いていられる訳である。こう考えると、その婦人が訴えて出ない事にも幾分解釈がつく。即ちその婦人は青年が世を忍ぶ身である事を知って、彼に同情して訴え出ないのだ。
 この考えの許に、私は依頼人の知人関係を調べる事にした。何しろ依頼人自身が身許を隠しているので、この調査は頗る困難であったが、三四日の後判明した事は、依頼人の夫たる青年は某銀行家の一人息子で、結婚問題から一昨年家出したものであった。銀行家からは警察は勿論我々同業へも捜索の依頼がしてあった。皮肉な事には私の所へもちゃんと依頼が来ていた。その銀行家は一時の激昂の余り一人息子と義絶した事を後悔しているらしく、殊に二年に余る行衛不明はだんだん年をとって行く身に犇々とこたえると見えて、最近に一層猛烈にその行衛を尋ね出したのであった。
 親の方の関係、それから青年の友人関係と辿って見たが、最近赤ン坊をなくして悲嘆に暮れている家は見当らなかった。私の見込ははずれたのだろうか。
 私は母親の身になって考えて見た。よし自分の赤ン坊が知人の手にある事が分って、その知人が人目を避けているので急に遭えないと云う事が分っても、じっとして居られるものだろうか。彼女は青年が何かの手段で赤ン坊を返えしに来て呉れる事を予期しているに違いない。だが青年は彼女の名も所も知らないのだ。ではどこへ返えしに行く。それは彼等が共通に知っている所でなければならぬ。ではどこ? 東京駅前だ。呉服店だ。現に青年も健康でさえあれば、そこへ出かけた筈ではないか。
 時刻は? 矢張り始めに別れた時刻だ。
 そう思って私は依頼を受けてから五日目、午後二時過ぎ、東京駅前に行った。
 駅頭は相変らず混雑していた。呉服店行の自動車には群集が犇めいていた。私は思わず微笑んだ。
 二三台の自動車を見送っているうちに、ふと私はそこから少し離れた所に一人の婦人が佇《たたず》んでいるのを発見した。
 年の頃は二十五六、少し面窶《おもやつ》れはしているが、丸髷に結った奥さん風のすっきりとした美しい婦人である。
 じっと観察していると、彼女は自動車の発着の度に、眼を輝して忙しく乗降の人を探し求めている。自動車の姿が消えると、そのぱっちりとした眼は急に悲しそうになる。
 私は思った。この婦人だ。この婦人に違いない。私は思い切って傍へ行って言葉をかけようとした。その時に予期しない邪魔者が這入った。私が近寄らないうちに、私と反対の方から、一人の憂鬱な皺を額に刻んだ頑丈そうな六十近い年頃の紳士が太いステッキを振り振り婦人の傍へツカツカと寄って、一言二言囁いたと思うと、一緒にさっさと歩き出したのである。
 私は機会を失して茫然とその後姿がだんだん小さくなるのを見送っていた。
 だが、私は幸されていた。その夜、思いがけなく、赤ン坊を人に預けたまま、行衛を見失った母親が、その赤ン坊の捜索を私に頼む為めに私を訪ねて来た。美しい丸髷の婦人で、今日東京駅前で見たその人であった。

        再び妻の手記

 流元《ながしもと》で氷を砕いて立上ろうとすると、くらくらとして急にあたりが暗くなって終った。それからどれ位経ったか、赤ン坊の泣声に気がつくと、私は台所の板敷につっ伏《ぷ》していた。永い間の寝不足で瞼がひとりでに塞って、気が遠くなるのを一生懸命に堪えて、部屋に這入ると、寝ている夫の頭にそっと氷嚢を載せた。それからそっと三畳に寝ている赤ン坊を覗き込んだ。
 夫は一時下りかけた熱がブリ返えして、高い熱が又一週間続いている。赤ン坊は幸せと丈夫だったけれども、病気の夫を抱えて、馴れない赤ン坊の世話だもの。気苦労ばかりで、思うように行かない。今にも動けなくなる時が来そうな気がする。
 それに、薬代とか、氷代、炭代、赤ン坊の牛乳代など、倹約にしていれば二月位あるだろうと夫と話し
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