私はそこで、グイグイと酒を飲んでゐた。『今度はうんと、勉強すらあ』なぞと、時々蚊帳の中の、よくは見えない弟に対して話しかけながら、私は少々無理にお酒を飲んでゐた。
 それでも今晩立つのだといへば、若々しく、私は東京の下宿屋の有様なぞをも、フト思ひ浮かべたりするのであつた。弟にはさぞ羨しいことだらうと、思つてみては遣瀬《やるせ》ないのであつたが、こんな場合にも、猶生活の変化は嬉しいのである。
 だがまた、東京にゐて何時売れるともない原稿を書き、淋くなつては無理酒を飲む、しがない不規則な日々を考へると、ガツカリするのであつた。
 羨しがることはないよ。俺の此の八年間の東京暮しは、かう/\かういふものだと、云つてやらうかとも思つたが、また云ふ気にもなれず、母が聞いては心配するばかりだと、黙つてしまつた。
 そのうちに、なんとも弟の顔が見たくなつたので、蚊帳の中に這入つて行き、『では行つてくるからな』とかなんとか、云つた。
 やがて母が俥が来たと知らせた声に、弟は目をパチリと開けた。『あんまり酒を飲まないやうにしてくれ。』といふなり弟は目をつむり、もう先刻《さつき》から眠つてゐるもののやうになつた。『ぢや大事に。』けれども弟はそのまゝであつた。目を開けさして、私はもう一度言葉を掛けようと思つた、『泰三、――泰三。』『およしおよし』と蚊帳のそばまで来てゐた母が云つた。私は諦めて蚊帳を出ると、飲み残しの酒を急いで飲んだ。
 駅までの田圃路を俥に揺られながら、私も母の云ふやうに、もう二三日でもゐてやればよかつたと思つた。然し、敢て出て来たといふのは、――つまり何時までさうして弟の傍に、東京に生活(?)のある私がゐるといふことは、もう此の数日来では、弟の死を待つてゐることのやうであつた。死を待つわけもないのだが、私にしても今はもう弟の死を近いことに思つてゐたので、滞在を一日々々と伸ばすことは、今日死ぬか今日死ぬかといふことのやうな気がするのでもあつた。
『此の節は東京はどちらにおいでで』といふ、車夫の、暗がりの水溜りを避《よ》け/\云ふ声に、フト私は我に帰つた。『目黒の方だ』と、随分力を入れて答へたのではあつたが、その声はかすれてゐた。俥が揺れるたんびには、今にも涙が落ちさうであつた。

 それから二週間も経つた或る日、下宿の二階で爪を切つてゐると、弟からの手紙が届いた。
『僕は元気だ。昨日と今日は、床のそばに机を出して貰つて、レンブラントの素描を模写した。友達の住所録も、整理した。此の分では直きに、庭くらゐは歩けるやうになるだらう。
 兄さん、僕は元気だ。兄さんもどうぞ元気でゐてくれ。』それから一寸置いて、ちがつた字体で、『やつぱり迷はず和漢の療法を守つてゐればいいのだね。西洋医学なぞクソでもくらへだ』とあつた。
 私は喜んだ。しかしほんとだらうか。だがやつぱり不治なぞといふことはないだらうと、私は猶|一縷《いちる》の望みは消さないで持つてゐたことに、誇りをさへ感じた。秋の日を受けた、弟の部屋の縁側は明るく、痩せ細つた足に足袋を穿いて、机に向つてゐる弟の姿が、庭の松の木や青空なぞと一緒に見えた。
『あれが中日和といふものだつたのでせう』と母は、埋葬を終へた日の宵、私達四人の兄弟がゐる所で云つた。
『中日和つて何』と、せきこんで末の弟は訊いた。
『死ぬ前に、たいがいその一寸前には、気持のいい日があるものなんです。それを中日和。』

 友達を訪ねて、誘ひ出し、豪徳寺の或るカフエーに行つて、ビールを飲んだ。その晩は急に大雨となり、風もひどく、飲んでる最中二度ばかりも停電した。客の少ない晩で、二階にゐるのは、私と友達と二人きりであつた。女給達は、閑《ひま》なもので、四五人も私達のそばに来てゐた。そして、てんでに流行歌を、外は風や雨なので、大きい声で唄つてゐた。急に気温が低くなり、私は少々寒くなつたので、やがて私も唄ひ出した。やがてコックが上つて来て、我々の部屋の五つばかりの電灯を、三つも消してゆくと、我等の唄声は、益々大きく乱暴になつてゆくのであつた。
 テーブルも椅子も、バカツ高く、湿つた床は板張りで、四間に五間のその部屋は、厩《うまや》のやうな感じがした。
 そこを出て、大降りの中を歩いて、私と友達とは豪徳寺の駅で別れた。ガタガタ慄へながら下宿に帰つて、大急ぎで服を脱いで、十五分もボンやりと部屋の真ン中で煙草を吹かしてゐると、電報が来た。『高村さん電報です』と、下宿のお主婦《かみ》は、何時もながらの植民地帰りの寡婦らしい硬い声で、それでも弟の死だらうと、大概は見当が付いてゐたものとみえ、流石《さすが》に眼を伏せて、梯子段の中途から、ソツと電報を投込んだ。
『タイザウシス』
 私はその電報を持つて、部屋の真ン中に立つたまゝ、地鳴りでも聞いてゐるや
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