した沈黙が続いてゐると、医者は振返つて私の方を向いて云つた。
『ですから、弟さんには、何時もお話ししてゐるのです。人は諦めが肝心なのです。誰しも、と云つて医者は急にお経でも誦むやうな気持になつて、一度は死ぬことなのです。さう思つて諦められてですな、ゆつくりした気持でゐられゝば一日でも長く生きてゐられることがお出来なるのです。』
私はギヨツとして聴いてゐた。話しながら医者が再び弟の方を向いてをり、はじめて云つてゐることではないといふ調子であり、弟がまた、まんざらシラジラと初めて聞くやうな顔も出来ないといつた表情をして、私の方に視線を送つた時には私はギヨツとした。弟の眼は、秘密が露見した時に人がする眼であり、まあそんなことを云つて呉れてはと、周章《あわ》ててゐる私を見た時に、弟の眼はタジ/\とした。
医者はまあ、弟に前々からそんなことを云つて聞かせてゐたのであつたか? だがもうその言葉を、弟から撤回する術《すべ》はない……私は何といつてよいか分らなかつた。とりかへしのつかない思ひに、ただただ周章てふためいてゐた。それから尚医者の繰返す所によると、医者はもう、ハツキリと此の病気は癒らないのだからと、もうだいぶ前から云つてゐたのだといふことが、分つた。
弟はとみると、私に秘してゐたことがすまなかつたといふ気持もまじへて、まじまじとうるんだ眼をして私を見てゐた。『だが別に、秘《かく》してゐたといふわけではない』と、私のする察しが、同時に弟の眼の推移でもあるのであつた時には、私はすみやかに下を向くよりほかはなかつた。
而も猶、弟は自分の死を信じてゐたであらうか? 否! 誰としてからが、自分の死を、真個信じるといふことは、根本的にはないのである。一般には、此のやうな場合、弟は既に死を信じてゐたものと語られる。而もそれは、約束しておいたから、明日はあの男も喫茶店で待つてゐるであらうといふので、明日あの男は喫茶店にゐるよといふのと同様で、それは猶信じてゐるのではなく、信じたとすることによつて人の世の生活が進展する、たづきたるに過ぎぬ。
『ええ、ええ、と、医者のダミ声は云ふのであつた。平気で、平気で、気持をゆたらかに持たれて……』
『馬鹿ツ!』といふのと同じ顔をして、私は医者の顔に向つた。けれどもその私の顔はまた直ぐに赦罪の顔になり、世間普通のとりつくろひの感情となつた。すると弟は、チラリとその時私を見た。
さうだ、さうだと、近頃でもその時のことを思ひ出すと、わけても酒をあふつた夜なぞ、独りになると思ふのだ、私はシラジラしい男だ。――人々よ、君等には私をシラジラしい男といふ権利がある!……
だがまた、これは場違ひな話ではあるが、さうした私の心理の傾きを、或る時は、私がメタフィジックな函数を持ち客観性を失はない所以だと思ふのであつてみれば、そしてそれも亦、まんざら理由のないことでもないのであつてみれば、私はでは、どうした心構へをとればよいのであらうか?
だからさ、だから『悲しみのみ永遠にして』と、ヴィニィの言ふのは本当だなぞと、考へることは出来るにしても、はやさう考へる段となれば、早くも私の悲しみはゴマ化されてゐるに過ぎない。……
だから、だから人間は、気狂ひにならないために概念作用を持つてゐる……か。
さうかさうかだ。だが茲《ここ》に到つて自体考へなぞといふものが、凡そなつちやあゐないものであることを、思はないではゐられない。
『その※[#「月+俘のつくり」、第4水準2−85−37]腫《おでき》は、と医者は席を立たうと思つたかして、私の方に向き直ると云ふのであつた。放つて置かれゝば何時か自然に取れます。手術して取れないこともありませんが、痕跡《あと》が残りますしそれに、さうお邪魔でもないでせう。』
弟は私がそれを聞いてる間、ズツと私を視守つてゐた。医者はもう一度弟の方を向き、『ではまた明日《みやうにち》。お静かにしていらつしやい。』弟は医者の顔をジツと視てゐるだけで、一言も云はなかつた。
私は何か、心残りであつた。死を観念させられてゐる弟の前で、一寸した※[#「月+俘のつくり」、第4水準2−85−37]腫《はれもの》のことなぞ持出したことはと、そんな気持もするのであつた。
医者が帰つた後で、うつかりまた耳の下へ手をやつてゐるのを、弟の眼がマジマジとするので気が付いて、急に手を下ろすと、一瞬弟の眼は後悔の色を浮かべるのであつた。暑い日で、扇風器が廻つてゐたが、医者が帰つたので、少しそれをとめてくれと弟は云つた。やがてぐるりと寝返りをうつて、向ふへ向いたが、その時の頬のあたりは、今でも思ひ出すと涙が滲む。
九月八日の宵であつた。私はその夜の汽車で東京に向けて立つことにしてゐた。弟の寝てゐる蚊帳《かや》のそばにお膳を出して、
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